パーティー、懇親会のこと

 フォーマル、インフォーマルを含めていろいろなパーティーや懇親会に参加する機会がある。その感想を、書いておきたい。

 私は、大学で助手を4年勤め、各種のパーティを企画し、またその後もパーティーや懇親会の世話役に回ることが多かったので、つい主催者の側から考えてしまう癖がある。そのことへの自戒も必要であろう。
 フォーマルな会は、事前にきちんと計画され、厳粛な中で、型通り行われることが必須であろう。厳粛さがなければ、その会は、締りのない、だらけたもので終わってしまい、後に何も残らないであろう。
 ただ、私自身はこのフォーマルな会が苦手で、そこのスピーチで失敗したらどうしようと、前から気になってしまう。(実際は当日準備することが多いのであるが)
 特に、結婚式に呼ばれ、最初のスピーチを頼まれた時など、この会の為にどれだけ周到な準備がなされ、新郎新婦だけでなく、親戚縁者、同僚、友人一同が集まっている中で、冒頭のスピーチが会の雰囲気に与える影響が少なからずあると思うと、いい加減なことは言えず、かといって型通りだと気持ちが込められず、苦慮することになる。
 ただ、場の雰囲気で、用意した内容を変えることも必要で,そのあたりの兼ね合いが難しい。一度、結婚式で3番目くらいのスピーチを頼まれた時、用意した内容が全く合わないと場の雰囲気から感じ、用意した原稿を捨て、その場でアドリブで話し、切り抜けたことがある(同じようなことを、学会の共同研究の発表でしたことが1回だけある)。

 参加者の側からすると、型通り進む会は、安心であるが、少し退屈で、次に何が起こるのかのドキドキ感もあった方が楽しい。主催者の側にそれがないと、参加者にそれは伝わらない。しかし、主催者の側は、失敗した時のリスクの大きさ(それまでの準備が台無しになる可能性もある)を考えると冒険はできない。

 フォーマルな儀式的な会ほど、誰が来てくれたのか、どれだけ遠方より来てくれたか、どれだけ犠牲を払い来てくれたかが気になるところであるが、できたら、このような形式主義は捨てた方がいい。会には、来たい人が来て、楽しむことが第1だからである。
 しかし、なかなかこのようにできないのが、実情である。昔、呼ばれた結婚式に、(研究室の先生たちと休みの日まで同席したくないという気持ちから)、出席を断ったが、後でいろいろ言われ、困ったことがある。

 アメリカ式(?)のパーティーでは、儀式的なことはほとんどなく、最初の挨拶も、途中も終わりの挨拶もなく、いつの間にか始まり、勝手に人と話して、いつの間にか終わるということがあるのではないか。最近日本でも、このような立食パーティーも多い。
 ただ、この立食パーティーは知り合いがいる場合はいいが、ほとんど知り合いがいなくて、全体の話もないと、ただ黙々と一人食べ飲むだけで、空しい思いをする場合がある。
 また、着席で、席の近い人とだけ話すような懇親会もあるが、これも、周りの人と話が合わないと、はずれの場合もある。
 それを考えると、このような会では、全体の儀式やスピーチやイベントを充実してほしいと思う。

 どのような会でも、行くまでは気が重いが、実際に行ってみると、いろいろな人に出会え、楽しいことも多く、行ってよかったと思うことが多い。
 それにしても、いろいろな予定の人が、同じ時刻に、同じ場所に集まれるというのは「奇跡」に近く、どのような名目であれ、それが企画されるというのはいいことで、感謝されるべきことではないかと思う。

深谷昌志先生、和子先生のプレ傘寿を祝う会

本日、若いころからお世話になっている深谷昌志・和子先生の[プレ傘寿を祝う会]に出席させていただいた。その写真を何枚か掲載させていただく。
「傘寿」とは、数えで80歳のお祝いで、これまでは長寿をお祝いするという意味が強かったが、段々70歳や70歳後半を過ぎてからも仕事を継続する人が多く、次の世代へのバトンタッチという意味で開かれることも多いようだ。
深谷先生ご夫妻の場合は、それよりはさらに仕事面でも、お気持ち面でも若く、今回も新しい本の出版記念のような会で、我々世代(60代後半)も大いに鼓舞された。

「東京JAZZ」

知り合いの知り合いの方が、手掛けているNHKの音楽フェスティバルの案内が届いたので、転載させていただく。夏にふさわしい、素敵なイベントのようだ。

【9月の頭に「東京JAZZ」というイベントを手がけております。(9/6金~9/
8日)
http://www.tokyo-jazz.com/

まだまだ暑いこの時期ですが、夏にカレーという感じで、熱いJAZZプレイをお楽しみ頂ければ幸いです。
特に今年は、グラミー賞最年長3冠アーティストのトニー・ベネット、ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブのオマーラなど、御歳70後半の偉大なアーティストが出演します。
日本で見ることが出来るのも、年齢を考えると最後となるかもしれません。
9月7日(土)の昼公演以外は、まだ余裕がありますので、もし宜しければJAZZで暑気払いでもどうぞ。
会場の国際フォーラムの外でも、無料の地上ライブ(これもかなり良いメンバーが出演します)、YMAHAの楽器イベント、NHKドーモ君が今回結成した「ドーモ君バンド」のお披露目ライブなど、楽しいイベントが盛りだくさんです。】

「受けた恩は、きっちり返したい」!

以前に書いた「受けた傷は、きっちりと返したい」といういい方は、舌足らずで、誤解を受けやすい。補足しておきたい。
そこで私が言いたかったのは後段の「このような心情も、時間と共に、忘れ去られことも多い」「長い年月が経つうちその恨みは忘れ、さらにその人に親しみすら感じている自分を発見することがよくある」ということである.

さらに、その裏の側のことを言いたかった。つまり、「受けた恩は、きっちり返したい」ということである。
他人が自分に対して、してくれたことを、すぐ何らかの形で返礼ができればいいが、それができない場合も多い。その場合は、きちんとその恩を覚えておいて、一生をかけても返したいと思う。

ただ、このことは、逆に報恩を期待するということではない。
江戸の昔から、江戸っ子は、地方から出てくる人に、見返りを期待しないで便宜を図ってきた。それが江戸(東京)の文化である。(その文化が利用され、気がついてみれば、東京人が排除されることはよくある。しかし、それは江戸(東京)の文化なのだから、恨んではいけない〈江藤淳〉)

優位に立つものは、劣位にいるものの面倒をみるのは当然で、それに見返りを期待してはいけない。しかし、劣位の時に受けた恩は、将来力を付けた時に返すのが、礼儀である。この礼儀を忘れないようにしたい。

習慣的な欲求について

習慣的な欲求について、考えてみたい。
人には長く生きて来て、習慣化していることがあり、それをしないと、何か居心地が悪く、イライラするということがある。(注)
それが、どのようなものかは、人それぞれである。毎日、散歩する、音楽を聴く、新聞を読む、テレビを見る、本を読む、パソコンに向かう、ペットと遊ぶ、花に水をやる、運動をする、などが思い浮かぶ。(喫煙や飲食、ゲームやパチンコが習慣化している人もいるであろう)

我々大学教員について考えてみると、仕事上、一番習慣化していることは、本を読むことと、そこからいろいろ思索することの2つである。さらに個人的に思索した内容を、表現したり、誰かと議論したりして、さらに深める作業が習慣化している。
したがって、大学教師は一日のうちで、授業や会議が続き、本が読めなかったり、思索の時間がないと、今日は大切なことをし忘れたという居心地の悪さを感じる。
大学教員は、授業や学生への指導で多くの時間が潰れると、早くひとりになり、本を読みたい、と思う。それは、大学教師が読書,思索という習慣的欲求を、仕事上第1に持っているからである。

ところが、大学改革などで、大学教師に要求されることもさまざまになり、また大学教師自身も変わりつつある。読書や思索を第1とは考えられない仕事環境や、読書や思索は好きでない大学教員志望生(学生、院生)も現われている。さらに、大学教員顔負けの読書家や思索家が世に多く、大学教員の特質が薄れている。

(注;このことを、作田啓一は、「習慣が責務の感情をひき起こす場合がある」と表現している。『価値の社会学』岩波書店、1972年、97~8頁)