3度の食事の大変さについて

生きていく上で毎日しなければならないことがいくつかある。睡眠と食事の2つは必須中の必須であろう。
それらを人は、楽しんで行っているのであろうか、それとも義務として苦痛を伴い行っているのであろうか。あるいは、習慣になり楽しみも苦痛もなく、何も感じることなく行っているのであろうか。

自分のことで振り返ってみたい。
睡眠に関しては、今は眠たくなれば寝て、朝自然に目が覚めるような生活を送っているので、楽しみでも苦痛でもない。
ただ、学校に通っていた青少期を振り返ると、起きて学校に行くといろいろ辛いことがあったのか、なかなか起きられなくて、眠っている時が一番幸せと感じていたような記憶がある。

食事に関しては、戦後の食糧難の時代、そして裕福でない家に育ったせいか、お腹さえ膨れればいいと思っていたので、食事を楽しみにしていた記憶がない。ご飯が白米ではなく麦が入っていた記憶や、親が子どもにだけおかずを用意していた辛い記憶がある。
学校給食は脱脂粉乳(?)だったし、たまに出て楽しみにしていた「トン汁」は豚の脂身だけが浮いていた。貧しくてお昼にお弁当を持ってこられない子もいて、心が痛んだ
したがって、食事に関していい思い出がない。

先週、お昼に近くを通りかかったH大学で、あまりにお腹がすいたので、大学の食堂に入り、カレーラスを食べた。そのあまりの不味さにびっくりした。ただ、それ以上に、(それは普通の大学のカレーライスの味に過ぎなかったのかもしれないのに)このカレーライスを美味しくないと感じる自分にびっくりした。
結婚して以来、妻や娘が美味しいものを家で作ってきてくれたのであろう(私に料理の技術もセンスもない。妻や子どもは、美味しくないものを食べるくらいなら、何も食べなくていいと考える世代である)、また、よく行くカレー専門店のカレーに味に馴染んでしまったのかもしれない。

飛行機に乗ったとき、乗客に食事や飲み物を提供するのがスチュワデスの仕事の大半を占める。
母の入っている老人施設の様子を見ると、3度の食事の世話が介護の大きな比重を占め、人が一日3度の食事をするのは大変なことだとわかる。

美味しいものを毎回食べる習慣や文化が、今私達のまわりに定着し、3度の食事(準備、料理、後かたずけ)が大変な時代になっているように思う。

上記の内容に関して、武蔵大学の卒業生のSさんより、下記のコメントをいただいた。

< 先生の食に対する思いを、もう少しお聞きいたしたく存じます。
なお、介護の場面において食事介助は大切な介護のひとつです。少ない経験ながら、本人に食べる意欲があるかどうかで介助の負担が大きく変わるということがあると思います。
介護の現場において、時折、被介護者は生きているのか生かされているのか、と介護する者が思い悩むのです。多くの場合、本人に意欲がなく、介護する側の独りよがりになっている場合があります。このような場合、当然のことながら、食事介助は容易ではありません。
よって食事そのものや食事環境への工夫が必要になります。つまり食事を美味しくしたり、食堂の雰囲気を心地よいものに変えてみたりすることが大切です。
これは、子育ての際に子どもが自ら食べることを楽しんでいるのかどうか、にも当てはまるのではないでしょうか。そして、このような子どものころの原体験が、その後の食生活にもつながる…。食事は大変なのか、楽しみなのか?
食という行為は、生産から事後の処理まで多くの領域を含み、社会の中で循環しています。食べ物に対する美味い不味いという一端の事象から、さまざまな方向へ想起させられます。
社会を読み解くうえで、とても興味深いテーマであるように感じました。>

自分史

これも歳のせいなのかもしれないが、知り合いの自分史を読むと、とても面白い。人は、定年の時、あるいは定年後に自分史を書き、公表したくなるようだ。

最近読んだものとしては、大学院生の頃、研究会や学会でご一緒したことがある渡辺秀樹氏(慶応大学名誉教授)、今田高俊氏(東工大名誉教授)のものがある(前者は本、後者は雑誌のエッセイ)。若い頃を思い出し懐かしくなると同時に、指導を受けた先生や先輩や同期・後輩に関してまた出来事に関して、このように見て感じていたのかと、自分の見方との違いを知って興味深い。

また、最近知り合った人が出した「自分史」も興味深い。この人にこのような波乱に満ちた人生があったのかと知ることができる。地元の卓球愛好会でご一緒している松井昭男さんから、自費出版の本を見せていただいた。 東北での生い立ち(8人きょうだい)から、学生時代(東北大学)、職業人としての生活(鉄鋼関係の会社)、定年後の生活や旅行(シリヤ、ブラジル、ヨーロッパ、中国、台湾)についていい文章で書かれている。

私自身のものは「7分間スピーチ」(8月28日付けブログに掲載)がそれだし、『学生文化・生徒文化の社会学』(ハーベスト社、2014年)の⒓章(「学生文化への関心」)がそれにあたる。もう少し、きちんとしたものをいつか書いてみたい。

上記に関して、Jさんより、下記のような内容のコメントをいただいた。 

<清水義弘先生も東大定年後、広い意味での自分史的なものをいくつも書かれていました。教育学の分野では、森田尚人先生が「聞き書」で、村井実教授、上田薫教授の2人の回顧録を編纂されています。下の世代の者は、オーラル・ヒストリー研究を進め、先達の貴重な歩みを残し、そこから学ぶ必要があると思います。>

知り合いのKさんより、Kさんが編集を担当したシスターの自分史(近藤節子『出会いに感謝』2014年)を送っていただいた。
写真入りの自分史で、シスターのおらかであたたかい人間性と周囲の人との係わりがよくわかる素敵な作品である。

老人介護

昨日(20日)、老人保健施設の様子を2時間近く観察する機会があった。
老人の介護は大変だなと改めて思った。そこで介護士とし働いている人の苦労とストレスは大変であることがよく分かった。
痴呆を持った人も含めた40人近くの老人(その多くは車いす使用)に夕食を提供するスタッフが4人で、配膳から片付けまでー配膳、入れ歯の配布、食事の介護(ひとりで食べられない人もかなりいる)、各自の食べた量のチック、歯磨き、片付けーまで行っていて、てんてこ舞いであった。
その間、老人達はおとなしくしている人(テレビを見ているなど)は半数近くはいるが、痴呆からくるのか、常にスタッフを呼んだり、中には車椅子を人にぶつけるひと、喧嘩をする人などもいて、食堂は大騒ぎであった。
介護の人が、これらの老人に、根気よく対応しているのは感心したが、かなりのストレスも溜まるであろうことが予想された。
家族で、介護の手助けに来ている人は、1組だけであった。家族で介護できない老人をこのような施設にお願いするのであろうが、受け入れる側の大変さもまじかで見てわかった。また、入居者(老人)の立場から見ても、耐えなければならないことがたくさんあることがわかった。

このような場に、教職志望の学生が介護体験で行くわけであるが、老人介護の大変さがわかり、それに比べ学校の教師は楽だと思うにしても、教職の勉強になるのかどうか疑問に思った。

電車やバスの座席について

毎日のことだが、電車やバスの座席のどこに座るかは、悩むところである。私はこれまでは、「絶対優先席には坐らない」という原則を守ってきたが、このところその原則を守れないことがあり(混雑時など)気を付けなければいけない。
若い人が、優先席に座るのはどのような習性から来ているのであろうか。大体優先席は隅の方にあり、人の目線を避けることが出来、落ち着くのかもしれない(電車やバスは多くの人の目線が行きかい、乗るだけで疲れる)。
優先席のことより、二人分の座席を占拠して、人に傍に来させないようにしている若い人(小中高校生も含む)のことが気になる。運動部の生徒が大きな荷物を自分の席の隣に置き、4人のボックス席を2人で占拠し、人に隣に来ることを拒絶している様子は、千葉の先ではよく見かける(混雑時でも)。
電車やバスに乗る時のマナーに関しては、学校でもまた家庭でも教えていないのではないか。
「優先席には若い人は座らないこと、混雑時には席を譲り合うこと」は、常識的なマナーであることを、小中高校生に誰が教えなければいけないのではないか。

電車の席のことでは、水沼文平さん(中央教育研究所)から、下記のコメントをいただいている。

「日本の電車の中で概ね座らないのが野球やサッカーの中高生です。監督やコーチから厳しく躾けられているのでしょう。優先席で化粧をしたり物を食べたりしている若い女を彼らはどう見ているのでしょうか。」
「手元に司馬遼太郎の『街道をゆく40 台湾紀行』があります。1994年司馬遼太郎は台湾を訪問、高尾駅から台湾東部に向かう列車に乗ります。指定席で満員、そこに五十年配の女性が孫らしい女児を連れて入ってきます。女児はしきりにむずかります。司馬さんの通路を隔てた席に、髪を短く切った眉間に険がある背の高い青年がすわっています。正体不明のその青年が、以下本文「かるがると立ち上がって、通路の老夫人と女児に席をゆずってやったのである。女児は大よろこびだった。老夫人は何度も謝謝をくりかえした。青年は、はにかんでいる。人は見かけで判断すべきでない。」その青年が軍人であることが後で分かります。
私は司馬さんの14年後の2008年12月に台北に行きました。台北駅から淡水行きの電車(MRT)に乗りました。立っている人が多く、座席は疎らに空いていました。よく見ると立っているのは学生らしい若者でした。同行の台湾大学の学生によると、日本統治時代の道徳教育が家庭教育の中で生き続けているとのことでした。「見失ったもの」にほとんどお目にかからない日本の現状ですが、時々電車の中で年配の女性に「かるがると立ち上がって席をゆずる」中高年の男性に出会うと握手したくなるような親しみを覚えます。」

さびれた(?)地方の観光地

スキーのシーズンはそれなりの賑わいのある苗場も、それ以外の季節は閑散としている。消滅してしまう地方がこれから多くなると言われる昨今、苗場も同じ運命をたどるかもかもしれない。そのような場所を訪れるだけで、その手助けになるように思う。

苗場のドラゴンドラは、全長5.5キロメートルで片道25分ととても長く、乗り甲斐がある。しかも、紅葉の季節は、山々がきれい。昨日(18日)は紅葉には少し早すぎたようだが、山頂に近づくつれ、赤や黄色の葉が濃くなっている。冬場にスキーで滑った田代スキー場の雪のない景色を見るのも楽しい。

苗場にもその周辺にもいい温泉がいくつもある。その一つに三国峠を降りたところにある猿ヶ京の長生館の野天風呂(源泉かけ流し)、素朴でお勧めである。
http://yumoto-chouseikan.jp/onsen.html

猿ヶ京と水上の中間に千葉村がある。なかなか風情のある紅葉した木々が見られたが、訪れている人は皆無で、消滅も時間の問題であろう。