大型連休

今日からゴールデンウイークの始まり。9連休の人もいるという。
私の場合は週1で働いていて、毎週6連休なので、そんな有難味はないが、今回13連休となり、「初夏休み」気分。
住んでいるところ(稲毛)のと近所では、子ども向けのイベントがたくさん開かれている。今日は近くのダイエーの広場に小錦は来るというので、子ども(孫)と見に行く。
トークとハワイの歌の披露で盛り上がっていたが、子どもは小錦には全く興味はなく、隣のトイザラスのオモチャの方が、よかったみたい。

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歴史の跡

NHK大河ドラマなどで扱われた歴史跡は、多くの人が訪れ有名になるが、そのようなものでなくても、歴史に詳しい人からみると、歴史的に重要な跡が各地にるようだ。興味をそそられる。仙台に住む水沼文平さんから、下記のようなメールをいただいた。

<歴史好きの友人から話があった「堤町(つつみまち)に城下町と在郷の境目を表す何かがある」という「何か」を調べてみました。
家から歩いて15分くらいなので行ってみましたが何も見つからず、ネットであれこれと当たっているうちにとうとう発見しました。(ネットには何でも入っていますね。驚きです。)
地下鉄北仙台駅の脇の道路(旧陸羽街道)を日浄寺を左に見て坂を上り、下ること200メートル、旧国道4号線と接するところに「御仲下改所跡(おすあいどころあと)」の看板が立っています。
御仲下改所とは「おすあい したあらため どころ」が正式な呼び方のようです。「仲(すあい)」とは物品売買の仲介を業とする者、または,その仲介料を意味します。
江戸時代、ここは城下町に入る北の入り口だったところです。今で言えば「税関」のようなところで、他領および領内に移出入する商品に課した取引税を徴収していました。人ではなく物流に対するチェックポイントですから、厳密には番所(仙台藩では関所のことを番所と呼ぶ)とは異なりますが、「丁切根(ちょうぎんね)」という柵には木戸が設けられており、この場所が仙台城下町の北の関所と考えてもいいようです。
「御仲下改所」は仙台城下の東西南北(堤町・河原町・原ノ町・八幡町)に設けられていましたが、堤町以外で「御仲下改所」があった場所に関する史料がなく確認されていません。
「御仲下改所」の近くに「堤焼き・佐大ギャラリー」があります。堤町は仙台城下北辺の警固のため配置された足軽町で、内職として始まった堤焼や堤人形などの焼き物の町として知られています。当ギャラリーには水瓶、瓦、人形などの陶器が展示され、市内に唯一残る登り窯が保存されています。
私が住んで場所は昭和初期に宮城郡七北田村から仙台市に編入されました。藩政時代は「荒牧」という地名で、伊達藩の軍馬の牧場があった所です。北山・台原・東照宮を結ぶ線の南側が城下町でその北側は「在郷」ということになります。堤町は中学校時代、クラブのマラソンコースでした。当時は「御仲下改所」の建物も残っていたはずですが全く記憶にありません。
仙台は桜も終わり、ツツジが咲き始めました。これから本格的な青葉・若葉の季節を迎えます。>(水沼文平さんのメールより転載)

房総散策

昨日(20日)は、地元の卓球仲間と、房総散策。 最初に長生郡にある笠森観音に行き、1028年に建立さた観音堂を見学。 その立派さとユニークさに感嘆。 その後は、御宿に行き、地元のランチと御宿海岸の散歩そして御宿での卓球を楽しむ。

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初夏の花

桜の花があっという間に散り、もう、初夏の花ーバラやツツジが咲き始めた。これからの季節も、いろいろな初夏の花が楽しみ。

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渡部昇一氏(先生)のこと

渡部昇一『知的生活の方法』(講談社新書)は、若い時読んで感銘を受けた本である。
大学の助手をしていた時、助手の仕事はたいしたことをしているわけではないのに、なぜ研究ができないのだろうと悩んでいた。その時、上記の本を読んで、納得がいった。
研究は、鉄を熱して熱いうちに打つようなもので、熱するまでの時間が必要で、熱してからは誰からも邪魔されずに集中して作業(研究)に取りかかる必要がある。それが、鉄を熱し終わったと思ったら、それに水をかけるようなことが起こると、作業(研究)は進まない。最初の熱するところからはじめなければならない、というようなことを渡部昇一氏は書いていた。
大学の助手は、たいした仕事があるわけではないが、学科の研究室にいて、学生や院生の研究室への立ち寄りの相手をし、学会のことなどの電話での問い合わせに答え、教授、助教授から頼まれた事務的な仕事をこなしと、小さなこま切れの仕事を処理していかなければならない。その仕事は、いつ来るかもわからず、あたかもすり鉢の下にいて、途中で処理されず落ちてきた仕事を処理する役割を課せられていた(家庭の主婦も同じことかと思った)。
本を読んで、何かを考えようとすると、学生が「○○先生はいつみえますか?」と聞きに来たり、電話で「今度の学会大会はいつですか?」という問い合わせがあったりする。すると、熱しはじめた鉄に水をかけられたように読書や思考は進まない。少し熱したと思うと水をかけられ、その繰り返しで、読書や研究は一向に進まず、ストレスばかり溜まった。そのことを、渡部氏の本から教えられた。
また、渡部氏は、知的生活を行う為には、本を手元に置いておくことが極めて重要で、調べるために図書館などに行くと、思考が中断され、優れた研究ができないと書いていた。この点もとても納得でき、私の本集めの指針になった。渡部氏の思想的な本は全く読んでいないが、学問への姿勢には感銘を受けた。
渡部昇一氏とは全く面識はなかったが、私が上智大学に非常勤で教えに行った時、よく非常勤講師室にいらして、弟子達と話していた。これが有名な渡部昇一先生かと、少し離れた席から眺めていた。私が上智大学に奉職してからは、文学部の教授会で月に1回ご一緒したが、教授会メンバーは130名くらいいて、先生もほとんど発言もされなかったので、どのようなお考えで、どのようなお人柄なのか、全くわからなかった。
当時、上智大学で一番有名な看板教授と言えば、渡部昇一先生だったと思うが、教授会の中でそのような雰囲気は全くなく、上智大学が渡部昇一先生をどのように扱っているのかと不思議に思った(先生も近著で、一番落ち着く場所は、大学や教授会ではなく自分の書斎だと書かれていた)。
その渡部昇一先生が、ご逝去されたという記事を今日(18日)の新聞で読んだ。ご冥福をお祈りする。