戦争について(その2)

NHK・BS1,8月18日「日本を焼き尽くした米軍幹部246人肉声:無差別爆撃の衝撃の理由と真相」をみると、戦争がいかにいい加減な論理で、何十万万人という人を殺す愚かな行為であることがわかる。そしてそれを唱えた人が英雄視されたりする。それも高々70年前のことである。(その後、ベトナム戦争でも無差別の空爆が行われた)

つまりアメリカ空軍のトップは、陸軍を追い抜くために、空軍の力だけで日本を降伏させることができる、市民を無差別に爆撃すれは日本人の戦意が衰え、早く戦争が終結する、アメリカ軍の被害も少なくて済む、という理屈で、東京だけでなく、多くの地方都市を軍事工場がない都市も(たとえば鹿児島)、B29からの大量の爆弾で、壊滅させることが実行された。
この空爆で、多くの日本人(市民)が殺された(その数は、原爆で殺された以上であろう)。原子爆弾を落としたのは、その空軍の無差別爆弾をやめさせるために行われたという説もあるほど(これもひどい言いわけと思うが)である。
原爆投下と並んで、一般市民を無差別の殺す空爆の愚かさ、犯罪性を我々はしっかり認識しなければならない。

以下、番組の感想を一部ネットより転載(https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2409266/index.html)

<幼い頃から聞かされてきた東京大空襲。少人数の都合で、あんな大規模な殺りくが実行されてしまう狂気が恐ろしい。そしてその惨事が十分に反省されることなく、現在の軍事に続いていることに危機感を覚えた。私の友人にも知ってもらいたい。投稿者:カレン>
<職業軍人の暴力性が英雄伝にすり変えられてしまう仕組は、日本もアメリカも北朝鮮もほとんど変わらないのだろう。ジャーナリズムが政治と教育が流布するプロパガンダを読み解き、光を当てる役目を果たし続けることの重要性を、あらためて痛感します。制作スタッフの皆さんに敬意を表します。教科書や歴史書に書かれている定説を丁寧に修正する作業も諦めてはダメだ。投稿者:アイス・ワールド>
<戦闘意欲を消失させ、終戦にもっていくための猛攻という理由付け自体、当時のルメイ本人の、戦争という魔物に取りつかれた、心ががらんどうでいきあたりばったりな愚かしさしか感じない。そして、孫との晩年も彼の人としての本来あるべき穏やかさであると認めた上で、戦火はもういらない。投稿者:クモ雲>
<こういう番組の制作に感謝します。アメリカ空軍からみた日本は、命を大切にすることを少しも感じない、自らの組織、意地、プライド、夢・・・そういうもののための戦いだったのだと知った時、失われた多くの命は、いったいなんだったのだろうと思った。日本の降伏が遅かったのが悔やまれる。>

ロマンチックラブの行方

これは新しい世代の感覚だし、また家族社会学のテーマだから、世代の違う門外漢には理解不可能な内容のような気がする。

私の学部・大学院の指導教官のひとりの故松原治郎先生がnuclear familyを核家族と訳し、恋愛結婚で結ばれた夫婦とそこに生まれた子どもが人類普遍的な核であるとした。私たちの世代は、ロマンチックラブで結婚することが理想的なものと考え、そこで生また子どもを健全に育てることこそ家族の使命と考え疑うことをしなかった。
ところが、今そのロマンチックラブ=結婚のイデオロギーが揺らいでいるという。

それは、「ロマンチックラブは自由な恋愛を描いているように見えて、受動的で依存的な女性像を再生産してきた」「典型的なロマンチックラブを描いてきた米ディズニー。「リトル・マーメイド」(89年)、「美女と野獣」(91年)などから、抑圧された女性の成長物語という色彩が強まり、決定的なのは「アナと雪の女王」(2013年)だ。妹アナとハンス(王子)との恋愛は「真実の愛ではない」と否定され、姉エルサの愛は異性に向けられない。」
「ありのままの自分を認めてくれる『ピュアな関係』を求める欲望が見え隠れする。」「恋人か友達か。異性か同性か。境界が揺らぐ背景には、今どきの親密な関係への欲望と、従来のロマンチックラブとのズレがある。」
(「友達?恋人?曖昧さの魅惑」朝日新聞8月17日朝刊)。

アメリカのテレビドラマgleeの恋愛関係、人間関係をみていると、ロマンチックラブ=結婚は基調にありながらも、それ以外のさまざまな恋愛関係、人間関係が描かれ、ロマチックラブ=結婚がかなり揺らいでいることがわかる。
日本の若い人たちの現実は、どのようなものなのだろうか?上記に書かれているようなことが、現実なのだろうか。学生達にも話を聞いてみたい。

戦争について

昨日(8月15日)は、終戦記念日で、テレビでも新聞でも戦争のことが取り上げられていた。
高校の社会科教師のK先生から「最近のテレビでは、NHKの戦争関係の番組が、なかなか見応えのあるものがありましたね。(「本土空襲・全記録」「731部隊の真実」「戦慄のインパール」など) いろいろ最近の発見や資料が使われているようで、なかなか良くできていると思いました。」というメールをいただいた。
終戦記念日と言えば、韓国の人が、8月15日を「戦争の勝利を祝う日」と言っていたのを聞いて、ショックを受けたことがある。日本の視点だけから、戦争のことを考えると、間違うことになる。
今日(8月16日)の朝日新聞の夕刊で映画作家の想田和弘氏が、戦争は非合理なものだと書いていた。その馬鹿げた不合理さを阻止する方策を探らなければいけない。(下記に一部転載)

<米国・トランプ氏と北朝鮮・金正恩氏の間の緊張が高まっている。しかしロジカルに考えれば、両国には戦争するための合理的理由やメリットがないので、戦争になる可能性は低い。(中略) 理屈的にはそうなる。しかしそれでも僕は不安を感じてしまう。なぜなら、人間とは必ずしも合理的に行動する生き物ではないからだ。(中略) 人間とは、ときに非合理的に行動し、自滅しかねない生き物なのだと思う。だからこそ様々な問題が起きる。国同士の関係だって同様だろう。(中略)人類の歴史を振り返っても、合理的な理由とメリットに基づいて行われた戦争を、僕は思いつくことができない。先の二つの世界大戦も、一見もっともらしい大義名分に基づき開始されたが、それらは結局、参加した国すべてに凄まじい破壊と殺戮を招いただけで、得をした国などなかったはずだ。要は徹頭徹尾、愚かな行為であったのだ。(中略)あらゆる戦争は非合理的感情に支配された破滅的な愚者によって起こされ、彼らに非合理的に従ってしまう大勢の人々によって遂行されるのである。>(想田和弘)

追記 私の戦争観は、下記。
① とにかく戦争は悪、どんな大義名分も無意味。
② 戦争は、必然的に、非人間的な残酷な行為を伴う
③ その戦争(戦闘)に参加した人が、その戦争の非人間な行為(たとえば、無抵抗な市民、女、子どもも殺す)から精神の変調をきたし、その後の人生を狂わしていく(そのようなベトナム帰りの帰還兵を扱った映画や小説は多い)

海外体験について

子どもたちの海外体験は、いつの時期にどのような形で行うのが、効果的なのであろうか。私はこの分野には疎く、あまり語る資格がないが、少し考えてみたい。
一つは幼い時あるいは若い時期の海外体験ほど、効果があるのではないか。うちでは
中1の長女と小5の次女が夏から1年間、私の在外研究(wisconsin ,madison)に同行し、アメリカの学校に通ったが、小5くらいまでが、ネイティブのように語学を学ぶ限度のような気がした。
二つ目に、主体的参加の大切さ。南山中高の教師で、生徒の海外でのホームステイも担当している上智の卒業生の和田徹也氏より、最近の実践報告(「年報」)を送っていただいた。それは、ホームステイ先で、家族の名前の由来を尋ねるというプロジェクトの報告で、子どもの名前を付ける時の考え方が、日本とオーストラリアでかなり違い(たとえば、オーストラリアではあまり意味を考えず、音(発音)を重視するなど)、日豪の文化の違いに、生徒たちは自ら尋ね、思いをめぐらしたというもの。高校の時の海外でのホームステイ体験は、2週間ほどの期間とはいえ、異国で自力ですべて主体的にやっていかなくてはならず、生徒に大きな影響を与えていることがわかる。
三つ目に、大学時代に海外に行くというのは、どうだろうか。留学は効果があると思うが、短期の海外旅行や教師の引率する海外体験(旅行)では、よほど工夫しないと、受身で何も主体的な活動や意識ははたらかず、多少の見聞は広がっても効果は薄い形で終わってしまうのではないか。
ただ、海外の大学で4年間過ごすと、日本に帰ってきてからの適応が難しいとも聞く。日本の学部教育、学生文化は独特なものがあり、そこで学んだ潜在的カリキュラムは、その後の日本の企業や社会の中で生きていくのに、必要な態度を身にさせているという。日本で将来生活するのなら、留学は、学部時代ではなく、大学院時代の方がいいという説もある。
しかし、これは、今は違うかもしれない。これからのグロバル化した社会の中で、子どもたちにいつ海外体験をさせるのか親たちも迷う時代である。

学校社会学研究会 第35回のお知らせ (再掲)

学会とは別に、有志でいろいろな研究会を作り、会合を持ち、真摯且つ気楽な議論をすることがよくなされている。ただ、そのような会は、外からの縛りがないだけに、長続きせず短期で終わることも多い。今から35年前に発足した「学校社会学研究会」は、故清水義弘先生が学校を研究する教育社会学の研究者に声をかけて、毎年夏に合宿形式で濃い議論を展開してきたものである。その会は、毎年10人~50人くらいの参加があり、35年の長きに渡り続いてきた。 私もここ何年か世話役のようなことはやってきたが、よくこれまで続いたと思う。はっきりした代表や役員というものがなく、また誰がメンバーかもはっきりしないアバウトな会である。年会費もない。 2日間にわたり学校の社会学的研究に関する水準の高い発表がたくさんあり、有意義な議論が展開される。参加費は500円で、実質的に公開で開催される。興味をもたれたら、当日ふらりと訪れるといい。

学校社会学研究会 第35回のお知らせ

日時 2017年 8.24(木)〜8.25(金) 会場:学習院大学 目白キャンパス(南2号館401室) JR山手線「目白」徒歩30秒 http://www.univ.gakushuin.ac.jp/access.html 参加費 500円

8月24日(木) 12:30〜   受付 13:00〜13:05 開会式 13:05〜13:45 野崎与志子  「ジェンダーと高等教育」 13:50〜14:35 刘荟 (中央大院生)「中国における公立学校間の格差問題:江酉省の重点高校と非重点高校の比較調査から」 14:40〜15:25 加藤幸次「カリキュラム・マネジメントで期待されている学校と地域の連携・協力のあり方について」 15:40〜16:25 児玉英明「『はいすくーる落書』を読む:教育困難校の教育学」 16:30〜17:15 小暮修三「国立大学教員のかかえる今日的問題」 17:20〜18:05 鷲北貴史「おばか世界のクランとトライブもしくは、大教室でのアクティブ実践」 18時30~ 懇親会(揚子江:目白)会費4000円

8月25日(金)  8:30〜     受付 8:50〜9:35 井口博充「留学生に教える日本社会の多様性:実践レポート」 9:40〜10:25 阿部智美(中央大院生)「都内私立高校生が語る『学校化社会』での葛藤:不本意入学者の語る『仕方ない』に着目して」 10:30〜11:15 白石義郎「音楽部活の物語構造」 11:20〜12:05 坪井龍太「18歳選挙権と主権者教育:特別支援学校の投票教育は主権者教育になりうるか」 12:10〜12:55 山本雄二「校内暴力と中和の技法」 総会 13:00〜13:15

問い合わせ先  井口博充 hi2@buffalo.edu

学校社会学研究会第35回プログラム