学校社会学研究会2日目終わる

2日間の学校社会学研究会で、いろいろ学び、考えることがたくさんあった。記録に残しておきたい。
1高等教育に関しては、進学率より総就学率が、国際比較では使われている。それは、高等教育段階の制度計画上の相当年齢人口(分母)と当該高等教育への全就学者数(分子)との比率である。100%を超える国(韓国)も、女子が男子を上回る国(アメリカ、オーストラリア他)もある。
2 中国では、戸籍がどこにあるか(都市か農村か)で、進学に有利不利が生じている。国が重点学校や重点大学の予算や人的資源を優遇しており、そこに入学しようとする受験競争が激化している。
3 次期学習指導要領の考え方の1つは、地域や社会に開かれた学校教育を目指している。その場合の地域は学区とは違い実際の生活が行われている地域(コミュニティ)である。そのモデルになるところがアメリカ(マディソン郊外)や日本にある。
4 多賀たかこ『ハイスクール落書き』(朝日新聞社、1986年)には、1980年代の教育困難な高校の抱える問題とそれに格闘した教師の実践が描写されている、そこで多賀が描いているエピソードは今日の大学が直面している問題が先取りされている、という報告があった。それに対して、同様のことは、外国でもあり、カルチュラル・スタディの起源は、大学が大衆化して、多様な学生が入学して来た時、ラディカルな教員たちがポピュラーカルチャを研究しはじめたことにある、という指摘があった。
5 国立大学の教員の研究費は、2012年と2016年で比較すると減少している(最頻値 30万円~50万円→10万円~30万円)。ただし、外部資金獲得額はあまり変化がない(12年も16年も最頻値100万円~300万)。でも私立大学より国立大学が魅力的なのは、何か理由がある。それは、学生の質の高さと数の少なさかもしれない。また地方の名士としての評判かもしれない。
7 学校の吹奏楽は、個人の自己主張より全体の調和が重んじられる。個性を全体と調和させることの中に、個性の発見や輝きも見られる。それは音楽ならではのことであるが、社会の中の人の生き方に関してもそれがいえる(?)。吹奏楽を描いた物語には、個人の成長が語られている。作品を分析する時、作者の意図と作品(テキスト)は、別物と考えるべき。分析の作品を選ぶとき、恣意的であってはならないが、分析者の理論的枠組みに沿ってのものであればよい。
8 校内暴力は、1980年代の日本の中等教育で頻発した。その現象の解明は興味深い。当時非行研究からその理由を考えることもかなりなされた。私はA.K.コーヘンの「非行下位文化論」(反動形成)がそれをよく説明できると考えていたが、それよりマッツァの「中和の技法」(『漂流する少年』)がそれをよく説明するという報告が山本氏よりあった。生徒の反抗・暴力は、教師に権威がなくなり尊敬されなくなったせいでもある。その原因は、仕事の通じて教える親方―徒弟関係が通じなくなった現代の教師の有り様にあるという宮沢康人氏の論が妥当と私は感じてきたが、生徒の中の消費者意識の浸透が大きいという説明があった。現代の教師のとるべき方策として、「中和の技法」に乗らない、「学校が社会からの委託事業であることを示す」などが、山本氏より提案されたが、私は、かって吉本隆明が壇上から降りて抗議者と殴り合ったように、教師が教壇から降りて生徒と対等に渡り合う方が、いいように思う。無意味な校則を守れという教師に従順に従うことは、社会に出て理不尽な法律に従順に従う態度を形成する(学校の潜在的カリキュラム)。これは消費者意識かもしれないが、今自分で納得できないことには従わないという態度も大事だと思う。 いろいろ議論できるテーマである。
9 18歳から選挙権が与えられるようになった時、学校教育でそれをどのように取り扱えばいいのか、大きな問題である。日本の学校では、政治的中立に敏感なあまり、実際の政党の候補者や選挙公約などを取り上げ議論することもタブー視されるが、これは外国の事例も見て、考え直した方がいいかもしれない。
10 アクティブラーニングの手法で、大学で実践した報告があったが、その手法を研究会でも使って説明する方法もありだ思った。

 その他、教えられたこと、考えさせられたことはたくさんあった。また、私が誤解したこと、聞き落とした重要なこともたくさんあると思う。ご指摘いただきたい。

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朝焼け

今日(25日)は、千葉では朝焼けがきれい。これで、雨の多かった夏が終わり、晴れの暑い夏が戻ってくるのかと思った。
ただ、ネットで調べると、朝焼けがあると天気が下り坂になるという説もあるという。どのような天気であれ、夏らしく、且つ涼しさや爽やかさも感じたい。

<夕焼けだと明日は晴れで、朝焼けだとその日の天気は下り坂だと言います。これは地球が自転していることに関係します。地球は自転しているため、上空にジェット気流という西から東に向いて吹く風が、いつも吹いています。そのため、基本的に天気は西から段々変わっていくのです。朝焼けの場合は、東の空が赤く色付きます。朝焼けが起きる時は、東の空には、雲が無いということです。しかし、西にある雲が段々と東にやってくるため、天気は下り坂になるのです。>http://yahuhichi.com/archives/3790.html

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第35回学校社会学研究会第1日目終わる

学校社会学研究会の第35回が、今日(24日)、学習院大学で開催され、興味深い発表と活発な議論があった。
私は学習院大学をはじめて訪れたが、都会の真ん中にも関わらず緑が多く、落ち着いた雰囲気で、学生達も育ちがよさそうで、私立の旧制高校から大学になった旧きよき伝統の大学という感じであった。
(学習院大学の歴史は、右記 http://www.gakushuin.ac.jp/ad/kikaku/history/)
研究会の方は、現代の教育問題に関する貴重な発表と討論があったが、同時に若い中国の院生の発表や学部生の参加・発言もたくさんあり、35回続いた伝統とともに、若い息吹を感じ、とても有意義な楽しい会であった。明日も研究会は続く。

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津軽紀行     水沼文平

8月14日、車で津軽2泊3日の旅に出た。お盆だったが、下りの東北道は渋滞もなく順調に走り予定通り弘前に着いた。津軽平野は果てしなく広く稲田と林檎畑が混在していた。この旅のメインは73年前、たけと太宰が再会した小泊を訪ねることである。
l 弘前城の天守閣
弘前城の本丸は、隅櫓を天守閣跡に移転する工事中だった。私は長いこと、隅櫓は隅櫓であり、なぜそれを天守閣にするのか疑問に思っていた。工事現場の見学路で私がブツブツ言うのを聞いて隣にいた同年配の女性が丁寧に説明してくれた。「天守閣は江戸初期に雷で焼失、徳川幕府は再建を許さず、弘前の人はこの隅櫓を天守閣と思い長年親しんできた。ところが最近石垣が崩れ始め隅櫓崩壊の恐れが出たため、いったん天守閣跡に移し、石垣の工事が完了したら元に戻す」と言うことであった。この隅櫓は江戸時代に作られた東北で唯一の貴重な建造物であるという補足説明もあった。歴史に詳しいこの女性との対話は斗南藩にまで及んだ。私は自分の曲解を詫び女性にお礼を言ったら、手を軽く振り女性は身を翻したちまち姿を消してしまった。あの女(ひと)は現世(うつしよ)の人であったのだろうか。弘前城跡には市立博物館があるだけで広大な公園は市民の憩いの場となっている。天守閣と同様、市民の弘前城に対する愛着の現れであろう。
2 十三湖とシジミ
十三湖と日本海に挟まれた砂州に並んでいる土産品店に立ち寄った。日本海から吹き寄せる風は冷たく、手招きする女性に誘われ店に入った。ほとんどがシジミを使った商品である。一杯百円のシジミ汁を飲んで運転の疲れを癒した。この「トサノミナト」は鎌倉時代に安東氏の拠点として栄え、北海道、樺太、沿海州、朝鮮、中国と交易した港町だ。大津波で衰退したと言われている。ロシアの沿海地方との交流もあり、写真を撮らせてもらった店の女性に異国的な面立ちを感じた。
3 小泊の「小説津軽の像記念館」
十三湖から海沿いにしばらく走ると、日本海に滑り落ちそうな斜面に小さな漁港「小泊」がある。太宰が「たけ」と30年振りに再会した小泊小学校の隣に「小説津軽の像記念館」があり、その脇に運動会を見ている正座のたけと片足を投げ出した太宰の像がある。「私には何の不安もない。まるで、そう、安心してしまっている。ぼんやりと運動会を見て・・・・・・・」という津軽の一節の碑が立っている。太宰の母は病身で太宰との接触は少なかった。たけは太宰にとって母親のような存在であったに違いない。
太宰が訪ねたたけの嫁ぎ先の金物屋には誰もいなかった。運動会から腹痛で薬を取りに来たたけの娘に出会う。その時の一節である。「少女は、あ、と言つて笑つた。津島の子供を育てたといふ事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言つて聞かせてゐたのかも知れない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀が無くなつた。ありがたいものだと思つた。私は、たけの子だ。女中の子だつて何だつてかまはない。私は大声で言へる。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑されたつていい。私は、この少女ときやうだいだ。」
娘に案内され運動会で再会したたけはしばし茫然としていたが、やがて堰を切ったように語り始める。これが「津軽」のクライマックスなので長くなるが引用する。「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」
小泊を後に竜飛岬を目指した。急な九十九折りの上り下りが続いた。途中大学のサイクリングクラブか、数人の学生が登りあぐねて休んでいた。
4 竜飛岬の太宰治と吉田松陰
太宰は「津軽」の旅で三厩の奥谷旅館に泊まった。現在は「竜飛岬観光案内所」になっている。すぐ側の龍飛漁港にある太宰治文学碑には津軽の一文「ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」と刻まれている。
それを遡る93年前の1851年、吉田松陰(22才)は熊本藩の宮部鼎三(池田屋事件で自刃)と東北の旅にでる。小泊から荒磯を伝い歩き、1メートルの雪をかき分け、谷を登り下りして三厩にやっとの思いで辿り着く。旅の目的は津軽海峡を往来する異国船(ロシア)と日本の防備の状況を視察することであった。ペリー来航の2年前である。竜飛崎の駐車場から小高い丘の上にレストランがあり、その横に「吉田松陰詩碑」が立っている。詩碑には「去年の今日巴域を発す 楊柳風暖かに馬蹄軽し 今年北地更に雪を踏む 寒沢三十里路行き難し 行き盡す山河万の夷険 滄溟に臨んで長鯨を叱せんと欲す 時平かにして男子空しく 慷慨す誰か追ふ飛将青史の名」という詩が刻まれている。三厩で地元の人が話す津軽弁を聞いたが全く理解できなかった。松陰と宮部はどんな方法で地元民とコミュニケーションをとったのであろうか。
竜飛岬から対岸の渡島半島の松前と小島が見えた。函館山は残念ながら雲に隠れ見えなかった。
5 斜陽館と曹洞宗雲祥寺
金木町にある太宰の生家「斜陽館」は来館者で溢れていた。太宰ファンというよりはツアーのコースになっているのであろう。家屋は豪壮だが、明治・大正・昭和と借金の形に農地を取り上げ大地主として肥大化した津島家は小作農の襲撃を恐れるがごとく高い石塀に囲まれていた。太宰のいくつかの小説で克明に描写されていた広い台所、畳敷きのいくつもの部屋、米蔵、日本庭園など、あまり興味がないので飛ばし歩きをした。農作業の道具が置かれた土蔵の中の暗がりで斉藤利彦著『作家太宰治の誕生~「天皇」「帝大」からの解放』 という本を思い出した。太宰文学の背景には、幼児期の津島家の陰鬱とたけの母性が色濃く反映されていると思う。
斜陽館から歩いて数分、太宰治の「思い出」に登場する「曹洞宗雲祥寺」がある。この寺には「十王曼荼羅(通称・地獄絵)」という掛け絵が展示されている。太宰が幼少期に何度もたけに連れられ見に行き、さまざまな地獄絵を恐れながらもたけを質問攻めにしたという。
6 木造駅と遮光器土偶
司馬遼太郎の街道をゆくシリーズ41「北のまほろば」に木造駅の遮光器土偶が驚きを持って紹介されている。駅舎を覆う巨大は土偶で、ふるさと創生事業として駅舎に作られた。遮光器土偶は縄文時代につくられた土偶である。目にあたる部分がエスキモーの着用する遮光器のような形をしていることから近年この名称がつけられたが、実際は縄文人が目を誇大するための表現と考えられている。美しい目というよりは、小さい獲物でも見逃さないよく見える目を表現したものだろうか。この土偶はつがる市の亀ヶ岡遺跡から発掘されたものである。
7 十和田湖と韓国青年
最後の日、十和田湖を訪ねた。あいにくの雨で湖が煙っていたが大勢の観光客で溢れていた。ドライブインで韓国の青年と話をした。私の車が車止めにぶつかり少し傷がついたことがきっかけだった。彼はバンパーの見えないところの凹みを私に触らせ「レンタカーか?」と私に聞いた。自家用だというとほっとしたような顔になった。レンタカーに支払う修理代を気にしていたようだ。彼はソウルの学生で数人の仲間と東北旅行をしているという。メジャーは政治学、日本との歴史的関係に興味があると言っていた。さわやかな顔を残して彼は去って行った。
8 大湯環状列石と熊
十和田湖から東北道十和田インターに入る途中で「国指定特別史跡大湯環状列石」の案内標識があった。赤坂憲雄の「東北学」に書いてあったことを思い出し途中下車することにした。遺跡内で熊の目撃情報があるため、遺跡内の立ち入りは禁止されていたが車道から遺跡を見ることができた。大湯ストーンサークル館内の説明では、縄文時代後期の遺跡、ふたつの環状列石があり、石の下にはお墓とみられる穴が見つかっている。遺跡からは土器や土偶、鐸型土製品などがたくさん出土しており、祈りとマツリの場でもあったと考えられているということであった。遺跡はブナ林に囲まれ、狩猟・採集・畑作の東北縄文人にとって稲作などに依存する必要のない豊潤な土地に思えた。クマさんの出現を期待したが時間切れで断念した。
3日間の旅で1000キロ近くを走った。最も心に残ったのは小泊のたけと太宰の再会の場である。太宰の女性遍歴はたけへの回帰だったのかも知れない。雲に隠れていた岩木山が2日目の夕方にその秀麗な全容を現わしてくれた。機会があれば再度津軽の旅を計画したい。
(写真も添付します。-一枚目は弘前城隅櫓の工事現場、二枚目は小泊のたけと太宰、三枚目は木造駅の遮光器土偶、四枚目は岩木山と津軽平野、五枚目は大湯環状列石です。)

(仙台在住の水沼文平さんより「念願の津軽旅行を果たしました。テーマを決めて旅をすると楽しさも倍増します。東北には訪問したいところがたくさんあります。ぜひご案内したいと思っています」という便りとともに「津軽紀行」を送っていただいた。ご了解を得て、掲載させていただく. 武内)

DSC01944 (2)工事

DSC01980 (2)-太宰

DSC01987 (2)大きな像

DSC01990 (1) tugaru ヤマ

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日本の夏の様変わり?

8月になってから千葉でも雨が続いている。豪雨というわけではないので、被害があるわけではなく、真夏なのに涼しくていいともいえるが、それでも湿度が高く、うっとうしい。子どもたちにとっては、夏らしい遊びができない。
今日(8月20日)の千葉の天気は、晴れではなかったが、久しぶりに雨が降らず、うちでも外房の御宿に行き、子ども(孫)たちは、海のそばのプールで水遊び(泳ぎ)を楽しんだ。
砂浜(海岸)では、ビーチバレーの大会が開かれていたようでhttp://onjuku-kankou.com/event/beachvolley/、多くの人が集まっていたが、それが終わると、海で泳ぐ人も少なくなっていた。また、それも日本人が少なく、外国人ばかりであった。(特に南米人のような気がした)。日本人は海水浴をしなくなったのであろうか。日本の夏も様変わりしている。

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