冗談について

 私はある人から「あなたは冗談にならないことを冗談で言う。それでは真意は言えないし、真意は伝わらない」と言われたことがある。
反論も出来ず、「そうなのかな」と少し反省し、「でも、社会学的なつもりなのだけど、、、」と心の中でつぶやき、改められないまま現在に至っている。

私の言い訳(心情)としては、お説教というのがとにかく嫌いで、お説教をしたくないということがある。教育学では「こうあるべき」というお説教を言い過ぎると思う。
職業柄、教師という立場で学生に何か注意しなくてはならない時、お説教をしないのであれば遠回しに言うしかない。その場合、冗談も入れないとお説教になってしまう。

 これは今から32年前になるが、「教師-生徒関係のモラル」という道徳的な原稿を依頼された時、「心やさしき世代」と題して、学生の意見を聞いて次のように書いたことがある。(「教師にとってさびしい時代」『児童心理』52号、1985年、一部転載)
「教師-生徒関係のモラル」
・いくら退屈でも授業の進行を妨げるような行為をしない。教師の話を妨害するくらいなら、静かにねたり内職をしたりする方がよい。ねる時は席を選ぶ。内職は目立たないように後ろの席でする。
・教師より遅れて教室に入ってはいけない。遅れた時は、堂々と入ってきてはだめ、すまなさそうに入ってくる。途中で授業を放棄しない。それはデートの途中で突然恋人に黙って帰るという非人間的な態度の値する。
・講義内容がつまらなくても聞いているふりをする。教師のつまらない冗談にもなるべく笑うように心がける。その教師の信念に反対しない。
 
この文章を最近読んだ敬愛の1年生から、「先生の真意がわかりません。学生に皮肉を言っているのですか、学生を馬鹿にしているのですか」、と言われた。私の孫の世代の大学生からこのような「厳しい」ことを言われて、ドキッとした。

この文章の内容をまともにとって、「先生は学生に優しいのですね」という感想を言う学生が多い中で、この文章に冗談とその冗談のいかがわしさを指摘してきた学生に、私は慌てた。 ただその学生と話してみると「道徳教育が好きだ」という学生で、それならお説教も好きで(これは私の偏見かもしれない)、私と好みが違うので、そのように取られても仕方がないのかなと思った。いろいろ説明はしたが、あまり納得はしてもらえなかったように思う。

矛盾する両価性

画家のゴーギャンは、妻子を捨ててタヒチに行き、優れた絵を書いた(S.モーム『月と6ペンス』).
日本の有名な某作家は、放蕩を繰り返し、妻子を貧困の底に沈め,優れた小説を書いた。
優れた芸術を生むためには、それくらいのことは仕方がないのかなと思ったことはある。しかし、今日たまたま、有名な心理学者や政治家のことを書いた論文を読んで、これでいいのかとも思った。(読んだ論文は、下記)

やまだようこ「エリクソンの子どもたちと生成継続性」(『教育学年報8 子ども問題』2001年 世織書房、25-48頁)

ひとりは、あの有名な心理学者のエリクソンである。
「エリクソンは障害児として生まれたニールを、妻にも内緒で、生まれてからすぐに施設に入れた。(中略)エリクソンはニールが1965年に22歳で亡くなるまで1度も訪問せず、ニールが死亡したときも、彼に会おうとせず、葬儀も自分たちでしないで、電話で子どもたちに葬式をするように指示しただけであった」(28頁)、「子どもの精神治療の専門家で、ハーバード大学で多くの弟子を育て、親になることやケアの重要性を説いてきたエリクソンが、自分の子どもは見捨ててしまい、じゅうぶんにケアできなかたという事実を、どのように理解すればいいのであろうか」(30頁)

もうひとりは、エリクソンが自伝を書いた非暴力主義の運動家ガンジーである。
「ガンジーは公的には非暴力を公言しながら、身近なものには残酷で暴力的であった。妻に読み書きを無理強いし、青年が若い女性に魅力を感じないように女性の髪を切り、長男の(結婚に反対し)縁を切った」(41頁)

「矛盾する両価性の力、大きな野望と生身とのあいだに引き裂かれた乖離の嵐」(41頁)こそが、偉大な仕事を成し遂げたという指摘も、著者はしているが、そうなのであろうか。これまでエリクソンの理論にはあまり興味はなかったが、どのような人間性の乖離があのような有名な理論が出てくるのか、そのメカニズムを知りたいと思った。

大学の軽音部の変化?

私たちの研究グループの大学生調査で、現代の学生が、一昔前に比べ素直で、真面目で、おとなしくなっているという「生徒化」の傾向を、大学生に対するアンケート調査から明らかにしてきた(下記に報告書の全文をアップしている)。
https://www.takeuchikiyoshi.com/wp-content/uploads/2011/12/24531072.pdf

そのような傾向が、大学生の部活動や趣味、とりわけ音楽活動にも表れているのであろうか。

関西の中堅の私立大学の教員のTさんより、軽音楽部の顧問になり、「学生のバンドのライブを聴きに行ったが、大音響のロックではなく、語りかけるような、心地よい曲や演奏が多かった。そのグループに大学研究者の懇親会の余興で聴いてもらったところ大変好評だった.大学の軽音は変わりつつあるのではないか」という話を聞いた。(下記で、その演奏の一部を聴くことができる)
https://1drv.ms/v/s!AjdNY-YphRxPgnSY9lZg_VXNspIV

私は、大学生の軽音はロックが中心で、とにかく音が大きい(耳栓をしないと聴いていられない)という印象を持っていたが*、それは間違い、あるいは変わりつつあるということであろうか。このような傾向は、どこの大学の軽音でもみられることなのか。上品な私立大学だけにみられる傾向なのか、これから調べてみたい。

(追記;Tさんより後日、下記のメールをいただいた。
武内先生のブログを見てのコメントを、部長からもらいました。「この軽音楽部は、学生向けのライブの他にも、イベントで演奏することがあるため、その場の雰囲気や聴いてくださる方の年齢層に合わせた演奏を心がけています。また、普段使わない楽器(フルートやクラリネット等)も取り入れやすい軽音楽部なので、アコースティックな曲が多いのかも知れません。」ということだそうです。私の方が大きく考えすぎたかもしれません。)

*上智大学時代のゼミ生で宮永次郎君といういつもギターをかかえている学生がいて、彼はwaterというバンドを組み、卒業後もプロとして活動し、私も四谷や渋谷のライブハウスに聴きに行ったことがあるが、上手な演奏なのだが、とにかく音が大きいのには閉口した。宮永君は、今は、有名なミュージッシャンになっている。

不本意入学について

 ほしかったものが手に入らなかった時、人はどうするのであろうか。その次にほしかったもので我慢するというのが普通であろう。
 結果的に、一番ほしかったものより、二番目にほしかったものの方がよかったということもあり、人生何が幸いするかわからない。
 またこれは認知不協和の回避(実際選択したものがベストと自然に考えてしまう)やゴフマンの「クーリングアウト」の過程(失敗をうまく受容し、静かにもとの生活に戻るように状況を定義する)やブルデューの「社会的老化」(緩慢な喪の作用)で説明されるのかもしれない。(竹内洋『立志・苦学・出世』講談社現代新書、1991年、p.156-7,参照)
ただ、最初にほしかったものにいつまでもこだわる人もいるだろう。手に入らなかっただけに、一層それがよいもの、価値のあるものに思え、それが手に入れられなかった自分に自信をなくし、以後積極的な生き方が出来なくなってしまう。

 高校選びや大学選びといった選択でも、このようなことが起きる。入試に失敗して、第1志望の高校や第1志望の大学に入れず、第2、第3志望の高校や大学に入学した場合、人はどのような気持ちで学校生活、大学生活を送るのであろうか。
 「第1志望でなかったけれど、入ってみたらとてもいいところ、自分に合っていた」と学校や大学に適応・満足を示すものが多いことは、統計的にも明らかになっているが。しかし、なかには第1志望にこだわり、不本意入学で、自信をなくし、悶々とするものもいる。
 これを人生の先輩から見たら、次のように感じる。

<今回の学校社会学研究会で、高校生の「不本意」に関する発表がありましたが、この言葉は敬愛大学の学生からも聞いていました。
 価値観の多様化によってさまざまな選択ができる世の中なのに、どうして第一志望に入れなったことに拘るのか、そんな時間があったら少年・少女は、何かに熱中して欲しいと思います。人生とは所詮「不本意の連続」なのですから・・・・。中学校高校時代に柔道に熱中していた自分をなつかしく思いだしています。>(水沼文平)

友人からの便り

友人の馬居政幸氏(静岡大学名誉教授、教育社会学)より、著書や最近の研究活動についてお知らせいただいた。

「拙著『変化する社会と生涯学習の課題』(NSK出版,2017)は、久しぶりの単著です。社会教育主事資格付与のための授業科目のテキストとして準備したものですが、学校教育、青少年文化、少子社会論などに考察の射程を広げました。8月から9月にかけて次の作業を進めています。
① NSK出版から『人口減少時代を活きる家族と学校の条件―生涯学習社会再構築のために』を発刊。人口減少下の日本の教育システム再構築への課題と処方箋提示に挑みます。
②日本教育社会学会69回大会での下記のテーマによる琉球大学の西本先生との共同発表の準備「沖縄における離島と本島間の学力格差~学力調査が及ぼした影響に焦点をあてて~」

馬居氏の活動は、「馬居教育調査研究所」のサイト(http://www.uer-labo.jp/)からもうかがい知れる。
大学教員は、定年後、このような活動ができるのだという、ひとつのモデルになると思う。