同世代

私の同世代の教育社会学の研究者にはすぐれた人が何人かいるが、その一人は、竹内洋氏(京都大学名誉教授・関西大学東京センター長)であろう。
同姓(漢字は違う)、生まれが同じ(佐渡)*ということで、若い頃から近さを感じていたが、その優秀さ、業績の多さに近寄りがたさを感じていた(今もそれは変わらない)。私が上智大学に勤務していた時、教育社会学会の大会を引き受けたのも、竹内洋氏が会長でその依頼を引き受けた為である。
昔、全国大学生協のシンポジウムで、ご一緒した時、竹内洋氏が話した後、私が話すと順で、会場を沸かせる卓越した話し手の竹内氏の後で、青ざめたことがある。
ただとても気さくな方で、昨年の学会の後の2次会では一緒に飲み、いろいろな話ができた。氏はもう大学の授業は断っているけれど、原稿はよく頼まれ書いているとのこと。現役退職後の研究者の理想的な生活のように思えた。
 昨日(31日)の朝日新聞でも、リベラルに関する優れた洞察を述べていた。(朝日新聞、10月30日、朝刊より転載)

<自民に対抗、新しい言葉で 竹内洋さん(関西大学東京センター長)
 立憲民主党の枝野幸男さんは、結党直後から「自分は保守リベラル」「保守とリベラルは対立しない」などと発言していました。選挙後にはテレビで、自分を「30年前なら自民党宏池会です」とも言っていました。「リベラル派」の印象を薄めたいかのような発言に聞こえました。
 リベラルという概念は、複雑な要素はありますが、55年体制の「右・左」「保守・革新」という2大軸の延長線上にあると思っています。「保守・革新」で色分けされた戦後政治の記憶がある人たちなら、現在の「リベラル」が何を指すのか、何となくはわかります。冷戦崩壊を経て、今は保守と対抗する概念に「革新」ではなく「リベラル」が使われていますから。
 ただ、左右の対抗軸は今や実線ではなく、見える人にだけ見える点線のような分岐線にすぎません。若い世代には、その点線さえも蒸発していて見えません。そもそも「自民」の英訳は「リベラル・デモクラティック」であるし、長年、一貫した主張を続けているように見える共産党や社民党がなぜリベラル勢力なのかもわかりません。
 私が「革新幻想の戦後史」という連載を約10年前に始めたとき、「革新」の文字だけでは、それが社会、共産党などを指すことがわからなかった大学院生がいました。戦後の「保革」の対立図式は若い世代にはもう縁遠いのです。
 一方で、右派であるはずの安倍政権は同一労働同一賃金や教育無償化といった、ある意味、革新的な勢力が長く主張してきたような政策を取り込み始めています。
 そんな現在、マスコミが好んで使う「保守」「リベラル」という図式は、実は選択の軸たり得ないような気がします。枝野さんはそれを察知しているから、自分たちの政治姿勢を「リベラル」という言葉では表現できず、「まっとうな政治」「下からの草の根民主主義」といった政治スタイルへの言及が多くなったのかもしれません。もとより立憲民主党は希望の党に向けて一瞬吹いた風が、袋小路で行き場を失って流れてきたという恩恵を受けたのですから、この機に、自民党と対抗できる社会像を新しい言葉で提示してほしいと思います。
 現在の安倍政権に非寛容や独善、おごりがあるなら、それは一強で「外部」がないからです。かつて自民党政権には、党内に権力を狙う違う派閥が控え、国会には一定数の無視できない野党がいました。「外部」との緊張関係にさらされていたのです。
 立憲民主党も、反対だけの党になったり、数合わせに走ったりせず、自民党に柔軟な態度で臨み、だからこそ自民党が無視はできないような、存在感のある「外部」になってほしいと思います。 (聞き手・中島鉄郎)>

* 正確には少し違うかもしれない。竹内氏は東京生まれで佐渡育ちかもしれない。私は佐渡で生まれで千葉育ちである。(これは個人的で些細なことだが)

授業の記録ー「教育課程論」

敬愛大学での後期の私の授業の記録を少し残しておきたい。
科目名は「教育課程論」、対象は教育こども学科の1年生、受講生は37名である。

第1回(9月29日)教育課程とは何か(定義)を説明した。
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第2回(10月6日)学習指導要領の歴史的変遷の説明をする。学習指導要領は10年ごとに改訂され、「注入」(学力重視)と「引き出す」(個性重視)が、振り子のように行き来する。
戦後の教育状況と学習指導要領の変遷に関して、的確な二つの論稿、つまり新田司「教育課程・カリキュラム 教育内容」(『教育の基礎と展開』学文社、2016年)と岩田弘三「学習指導要領の変遷と子ども」(『子どもと学校』学文社、2010年)を読んでもらい、そのポイントを説明し、その要点をリアクションに書きとってもらった。
そのリアクションを読むと、学生たちは戦後の教育の内容の変遷の要点を理解してくれたことがわかる。
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第3回(10月20日)最近の学習指導要領の「生きる力」やこれからの「キー・コンピテンー」「21世紀型能力」について、説明した。使った資料は文部科学省のHPや、松尾知明氏の著作(『教育課程論・方法論』学文社、『21世紀型スキルとは何かーコンピテンシーに基づく教育改革の国際比較』明石書店、2017)。

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第4回(10月27日)
 教育課程論 第4回(10月27日)リアクション  教育の社会学的見方について 
1  前回のリアクションを読んでの感想
2  学校には、どのような行事があるか。学校の行事や年中行事には、どのような意味や機能があるか。
3  「社会関係資本」の獲得には、「同類的関係」の他に何が必要か(「教育社会学会参加記(その2)参照」
4  戦後の社会や教育環境の変容と教育(社会学)の研究のテーマとの関係をプリント(藤田英典「教育社会学のパラダイム展開と今後の課題」『改訂版・教育社会学』放送大学)とビデオから読み取りなさい。(教育環境の特質―研究方法、内容)
 ~1950年代、 1960年代、1970年代、1980年代、1990年代~
5  パラダイム(paradigm)とは何か。教育言説とは何か。

最初にハロウイーンに関連して、年中行事や学校行事の話をし、その意義を学習指導要領のなかの記述も読みながら、考えてもらった。   
以前に、教育課程は広義には児童・生徒が学校で学ぶすべてのこと、という説明もしているので、教育の社会的側面に焦点を当てている教育社会学についての話しをした。
教育社会学に関しては、まず私の「教育社会学会参加記」の最近のブログの記事を学生に配り、教育社会学会の話をし、特に参加記「その2」の「社会関係資本」のところを、大学の友人関係のことと絡めて説明した。その要点を読み取りリアクションに書いてもらった。
学生にプリントを配るだけでは、学生は面倒くさがって読んでくれない。そうかといってそれを読みあがると時間がかかる。そこでポイントだけ話し、詳細は各自読んで要点を読み取ってリアクションに書いてもらうことをしている。
次に、これまでの教育社会学研究の流れを知ってもらうために、藤田英典氏が、放送大学テレビ番組「教育社会学」(第2回)で、戦後の教育環境の変化とそれに対応した教育社会学研究の変遷の講義をしているビデオを見てもらった。(40分と短いものだが、密度の濃い的確な内容で、これは歴史に残る名講義であろう)。該当の箇所のテキストもコピーして読んでもらった

学生達には以前に、戦後の社会の変化と学習指導要領の変遷の関連を学んでもらっているので、戦後の教育環境の変化と教育社会学の研究の内容や方法の変遷との関係に関して、すんなりと理解できると思った。。学生の書いたリアクションをみると(下記参照)、学生たちは皆その講義の難しさもものとせず、その内容を聞きとってくれたことがわかる。
リアクションの例
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クラシックのコンサートを聴きに行く。

ここ数年、若者のライブを聴きに行くことはあっても、クラシックのコンサートを聴きにいくことがない。
それ以前もそんなにはないが、東京文化会館等で聴いたクラシックコンサートや合唱などや、娘がピアノやバイオリンを習っていた頃の発表会やその先生のコンサートを聴きに行ったりする機会は何回かあった。
昨日、久しぶりにクラシックの音楽を音響のいいホールで聴いて、堪能した。

場所は地下鉄・新浦安駅前の「浦安音楽ホール」、演奏者はリカルド・カリア(チェロ)&板橋華子(ピアノ)である。チェロとピアノのアンサンブルでいろいろな曲が演奏され、その演奏と音色に魅了された。ヨーロッパの音楽の香りがした。とりわけ私はヤルネフェルト作曲「子守歌」が心に響いた。
クラシックの音楽会は奥ゆかしく、演奏者の曲の説明やトークがあるわけではなく、演奏者の思いは曲目と演奏で聴衆に伝えるだけである。聴衆の音楽鑑賞力も試されるようで少し緊張する。その緊張感がクラシックコンサートのよさかもしれない。

「浦安音楽ホール」は、今年4月にできたばかりのモダンなデザインのホールで、横壁が木の格子でできていて音が柔らかに聞こえる。新浦安駅の駅前にあり交通も便利で、使用料を調べると平日の夜4時間で18,780円と格安(東京文化会館の小ホールは296,000円)。このような素敵なホールで、いい音楽が聴けて、千葉県の音楽レベルが上がってほしい。

* 浦安音楽ホール  http://ebravo.jp/archives/33048
新浦安駅前にクラシック音楽を中心したコンサートホールが2017年4月8日オープン(商業施設内4F~7F)。コンサートホールは室内楽に理想的な響きと一体感に優れた303席。フルコンサートグランドピアノ2台(スタインウェイD、ヤマハCFX)完備。多目的に利用できるハーモニーホール(可動201席)、スタジオ5室(内GP3、UP1)を併設し、国内外の一流演奏家による公演やアンサンブルシリーズなどを開催。

こんな素敵なホールで、素晴らし演奏で、チケット代も高くないのに、席は満席にならず、クラシックの演奏家の苦労を感じた。(プログラムは下記)

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ハロウィーンについて

日本では外国の年中行事をその背景や本質を抜きに取り入れ楽しんでしまうところがある。クリスマスやバレンタインデイがその典型では、10月31日のハロウィーンもここ数年同じように、日本で大きなイベントになっている。
ディズニーランドはこの時期、来場者もハロウィーンの衣装やデズニーキャラクターに扮しとても華やかなことであろう。(http://www.tokyodisneyresort.jp/special/halloween2017/)

私も授業で、ハロウィーンのお菓子を持っていき、学生とその雰囲気を少し楽しもうと思う。こじつけで(?)、年中行事の教育的意味を考えれば、ハロウィーンも教育学の題材になる。*
<年中行事とは、毎年特定の時期に行われる行事の総称。狭義では、伝統的な事柄、特に宮中での公事を指すが、広義では、個人的な事柄から全国的・世界的な事柄なども含まれる。日本における年中行事は、四季の農作業にかかわる事柄が多い。それに長い間の宮廷・貴族や武士の生活が、民衆の暮らしに取り入れられ、しみこんでできあがったものが多い>(ウキベディア)

少しはハロウィーンの由来を知っておいた方がいいと思い。Webで調べてみる(以前いも同じことをしている)。
<ハロウィン、あるいはハロウィーン(英: Halloween または Hallowe’en)とは、毎年10月31日に行われる、古代ケルト人が起源と考えられている祭のこと。もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事であったが、現代では特にアメリカ合衆国で民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている。カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などがある。キリスト教の祭ではない。ケルト人の1年の終わりは10月31日で、この夜は夏の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていた。時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。これに因み、31日の夜、カボチャ(アメリカ大陸の発見以前はカブが用いられた。スコットランドではカブの一種ルタバガを用いる。)をくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン(Jack-o’-lantern)」を作り、魔女やお化けに仮装した子供たちが近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート(Trick or treat. 「お菓子をくれないと悪戯するよ」または「いたずらか、お菓子か」)」と唱える。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティを開いたりする>(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3)

ハロウィーンを,子どもたちはディズニ―ランドでも近所(店がお菓子を配っている)でも楽しんでいる。

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理論と実証

教育(社会学)の研究で必要なこととして、①海外の研究動向に常に目を配り、最新の研究動向を押さえておくこと、②現場の現実を確実に把握し、実証的なデータで検証することの2つをあげることができるであろう。
これまでの日本の教育(社会学)研究が、「欧米の研究の内容を日本に適用することはあっても、その妥当性を日本の学校教育の現場に即して検証する試みがどれだけ重ねられたでしょうか」(馬居政幸)という指摘は、②を強調したものであろう。
しかし、逆に日本の現場を検証するのに、理論なくして自分の見方や感覚だけで検証を進めると浅いものになってしまう(①も重要、自己反省を含めて)。
今回の学会報告で、①に関連して古賀正義氏の報告に教えられたことは、ありきたりの(?)日本の若者調査のデータを、グラフベッターやリン(Lin,N.)の「社会関係資本」という海外の最新の理論を適用して解釈することによって、新しい知見を引き出していることである。
優れた理論は、研究者のデータ解釈を研ぎ澄まし、実証を堅実なものにするのであろう。