カズオ・イシグロ(『わたしを離さないで』(感想 その2)

カズオ・イシグロの『わたくしを離さないで』は、後でジワーとくる作品のような気がする。いろいろなことが、断片的に思い浮かぶ。

確か手塚治虫の漫画に、クローン人間が出てきたものがあったように思う(「火の鳥」か?)。そのクローン人間が感情を持ち、恋愛感情までもってしまった時、その後どうなるのであろうか。

 酪農農家でニワトリや豚を飼い育て、それらに愛情を注いて愛おしいと感情移入してしまった時、そのニワトリや豚をと殺場に送る時は、どのような気持ちになるのであろうか。(それを思うと、動物を可愛がらない方がよい?)
(小学校のクラスで豚を飼い、それをと殺に送り出すということを子ども達にさせる実践があったが、それは残酷な実践だと思う)

 幼年期、少年期を素晴らしい理想的環境のもとで育てられた子どもが、出て行く社会では過酷な運命や環境が待ち受けているとするとき、幼年期、少年期にその過酷さを教え、体験させていくべきなのか。
(もう少し具体的には)小学校で理想的な教育を行い、その子たちのその後入学する中学高校ではその対極の管理教育が行われ、また出ていく社会も過酷な現実が待っていて、その理想的な教育を受けた子どもたちが不適応を起こし不幸になるという場合、小学校の理想的な教育はよかったのかどうか。(あるいは小学校の時だけでも、いい思いをさせた方がいいのか)

この世に生まれてきた理由ははっきりしていて、その使命を果たした時命は果てる、普通の人と同じようでいて、かなり違う。普通の職業には就けず、カップルにはなれるが、結婚はできず子どもも産めない、寿命は普通の人の3分の1程度ーこの前提は揺らがず、その前提のなかで喜怒哀楽を感じる。とても哀しい存在。(普通の人も結局同じ?)

個人は社会の存続・発展の為に存在し、社会の中でのそれぞれの人の運命や役割はあらか決まっている、その役割が終えた時点でその人の寿命が来てこの世を去る、それを知っているのは神(=社会)のみで、個人はそれと知らず、自主的主体的に生きているようでいて、実は決められた運命にしたがって生きているだけである。

何も現実を知らずに過ごした幼少年期(モラトリアム期)やその場所や出来事が、切ないほど懐かしい。

―そんなことを、『わたくしを離さないで』は思わせる。

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皆既月食に思う

5歳の子に、「月食ってどうして起こるの?」と聞かれ、その理由*を説明できない自分を恥じる。

*太陽・地球・月の順番に並んだ時に起きる。太陽光に照らされた地球の反対側の影のところを月が通過すると地球の影に月が隠される。地球からは月が欠けるように見える。

これって、いつ習ったのだろう? 常識なのか?

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外国籍の子ども(ニューカマ―)への日本語指導について

千葉市の埋め立て地の団地群の中にある高浜、高洲の小学校、中学校には、外国籍の子ども(ニューカマー)が、多く通っている。多い小学校では、外国籍の児童が在籍児童の4割を超える。
本日見学した高洲小学校では⒑数パーセントが外国籍の児童とのこと。ここでは、ミャンマーの難民の子どもが多いという。在籍しているミャンマーの子は、日本語はよく話せるが、日本語を読んだり書いたりするのは苦手とのこと。それはミャンマーに文字を書く文化があまりないせいもある。
外国籍の子どもは、それぞれ出身の国の文化を背負い、また将来どこに住もうとしているかでも、日本語に対する構えが違い、指導を難しくしている。
日本もこれから日本語を書く文化から、デジタル化や英語の導入によって、違う文化に変化する可能性もあり、日本語指導がますます難しくなっている。
これらの子どもへの教育は、国際理解教育一貫で行えばいいのか、特別支援の教育の一貫なのか、議論のあるところのようである。

今日参加した「第3回千葉市日本語指導担当者連絡協議会」では、長年外国籍の児童への日本語指導に携わってきた元吉ひとみ先生の、「効果的な日本語指導の進め方」の講義もあり、外国籍の子どもたちに日本語を興味をもって学ばせる授業の工夫がさまざまあることを知った。(下記の添付参照)

千葉市の小・中学校では、外国籍の児童・生徒への支援が、担当教員の地道な努力によって担われていることを感じた。もう少し周囲の理解と支援と行政の援助が必要だと感じた。

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カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を読む

自分としては教師という商売柄、かなりの本を読んでいるつもりでも、実際は読んでいる本はごく少数、それも有名な本すら読んでいないことを知り、愕然とすることがある。
3年ほど前に学生が薦める重松清の小説を1冊読んで、なかなか面白くその後10冊以上は購入し読みふけったことがある。それまで重松清という作家の名前すら知らなかった(2015年2月14日、ブログ参照)。
今回ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏の本も、恥ずかしいながらこれまで1冊も読んだことがなく、名前すら知らなかった。
ノーベル賞の受賞を機に1冊くらいは読んでみようと、文庫本で「わたしを離さないで」を購入し、読み始めたが、読み慣れない翻訳本ということもあり、なかなか読み終わらず、1か月くらいかけてようやく昨日読み終わった。
最初の方は、何やら寄宿舎での生徒同士の人間関係や教師との些細なやり取りに明け暮れている内容と思い、かなり退屈と感じていたが、最後に来てすごい秘密が明かされ、こんな重いまた現代的な問題を扱っていたのかと、心にずしんと響いた。また描かれた中の会話の緊迫感はすごい(漱石の「明暗」以上)と今は感じている。

ネットで、カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」を検索すると、含蓄のある解説があった。
これから、この本も読み直し、その映画やテレビドラマも見て、またイシグロの他の小説も読んでみようと思っている。(「あなたは全く鈍く、肝心なことに気付くことが遅いのだから」という家人の声が聞こえてきそう)

 ネットの解説を、一部転載。https://pdmagazine.jp/works/never-let-me-go/

<【カズオ・イシグロ、ノーベル文学賞受賞!】『わたしを離さないで』
『わたしを離さないで』は2005年に出版された長編第6作。翻訳者である柴田元幸氏は、「著者のどの作品をも超えた鬼気迫る凄みをこの小説は獲得している。現時点での、イシグロの最高傑作だと思う」と日本語版(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)の「解説」のなかで語っています。
『わたしを離さないで』の舞台は1990年代末のイギリスです。物語はキャシーという女性が、幼少時代からの過去を回想する一人語りで進んでいきますが、読者はかなり早い段階から、キャシーが語っているのはどんな世界の話なのかに疑問を持ち、それが解消されないまま読み進めていくことになります。
このヘールシャムという場所は、どういった子供たちが集められており、育った子供たちはここを出た後どうなるのか、といったことについては、キャシーはなかなか説明しようとしてくれません。
私たち読者は、キャシーの語りの断片を手探りで拾い集めながら、その深奥にある真実や、物語世界を支えている恐ろしい前提について推測を重ねることになります。このキャシーの語り方で先の展開への興味をそそられ、ページを繰る手が止まらなくなるところが『わたしを離さないで』の第1の面白さです。
そして真実がどんどん明らかになっていく段階では、それが抑制のきいた語り口で明かされるために、かえって読者の驚きは大きなものになります。そしてその驚きを体験することが、この小説をはじめて読むときの醍醐味の一部といえるでしょう。
しかし、真実を知ってもう一度読み返したときでも、キャシーがただ自分の思い出を自分の視点で語っているというだけではなく、そこには様々な、文章の表面には表れてこない葛藤があった可能性も想像されるようになっていきます。そうやって読み返すたびに、キャシーが語っている内容そのものに加え、彼女の語り方の意味や、彼女自身にとってのその効果について、様々な読み方が可能になるのが、この小説を手に取る楽しみのひとつだと思います。>

映画
https://pdmagazine.jp/works/never-let-me-go/

これからの英語教育について

 鳥飼玖美子先生(立教大学名誉教授)より、最新のご著書『英語教育の危機』(ちくま新書(2019年1月)をお送りいただいた。
ご著書の中では、新学習指導要領の内容が批判的に検討され、「英語の授業で日本語の使用禁止」「センター試験廃止で入試が民間試験に」、小学校英語の教員の力量などの問題が、過去の英語教育をめぐる論争や言語学や異文化コミュニケーションなどの理論から、詳細に論じられている。
内容がとても重厚で、読み応えがあり、いろいろなことを考えさせられた。
英語や英語教育に関する論争の背後には、このようなさまざまな理論や考え方の相違があることをはじめて知った。
とりわけ授業を英語でやることのことの是非や、大学入試の外部試験の是非、同時通訳、イマ―ジョン教育、異文化コミュニケーションのことをいろいろ考えさせられた。
 英語をどのように子どもたちに教えるかは、とてもいろいろなことを考量しなければならない問題で、日本人の英語コンプレックスや体験からだけ考えることの危険性を感じた。