形式より実質、動機より結果に責任を

教育の機会均等についての考え方は、形式的平等から実質的平等に移っている。つまり教育を受ける機会を形式的に平等にすればいいのではなく、実質的な結果が平等になっている必要がある。

 この考え方を、いろいろなところに当てはめればいいと思う。100%の移行は無理でも、少しでも形式より実質の方向に移すべきだと思う。
 
 犯罪などは動機が問われるが、それより結果の方に比重を移し、動機がどうあれ、結果により責任を持たせるようにすべきなのではないか。
 最近の政治や大学スポーツの世界の「言い争い」をみていると、動機(意図)がどうだったかが問題とされているが、動機(意図)に関しては当事者は誤魔化して言うし、当事者が意識しないこともあるので、そこで争っても埒があかないのではないか。
その点、結果に関してははっきりしている(「特定のところが認可された」、「傷害事件が起きた」など)ので、その結果に関して、責任を持つようにすればよいと思う。
リーダーたるもの,本人の動機はどうあれ、結果として生じたことに責任をとるべきであろう。(動機に関する「言い訳」を聞き飽きた)

カズオ・イシグロ『充たされざる者』(早川書房、2007)を読む

昔は、観た映画や読んだ本について、それらを既読(観)の人を探して感想を聞いたものだが、今はネットでコメントや感想を読むことができるので便利である。

カズオ・イシグロの「充たさざる者」(翻訳)は文庫で939頁の大作で、しかもストーリーや人間関係がよくわからず、なかなか読み進めず苦労したが、後半は一気に読め、よくわからないながらも面白かったなという感想をもった。
個人的には、老いてから奥さんを大事にしなくてはいけないなという教訓を得たが、本の主題はそのようなことにあるわけではなく、もっと文学的なところにあるのであろう。ネットに載っている解説や感想を読んで、いろいろ考えてみたい。

<カズオ・イシグロの「充たされざる者」を読み終えた。中盤あたりを読んでいるときは正直なところ苦痛でしょうがなかった。一体何の話をしているのだろう、いつになったら話が進むのだろう、そんな疑問を抱えたまま物語はあちこちへふらふらと漂っていた。中盤を越えたあたりからなんとなく本全体の様相が掴め「そうか、これはカフカの城だ」と思うと妙におもしろく感じてきて途端に読むペースが上がった。>

<900頁えの超大作。問題作、まさに「充たされざる者」 主人公も読者も「充たされざる者」200頁までは正直。たいくつだった。眠気との闘い…。それ以降は面白くなってきてよかった。>

<ストーリーは、ライダーがピアノの演奏をするためにある国のホテルにやってきたところから始まります。 ただ、時間の流れが一体どうなっているのか、地理的にもここは一体どうつながっているのか。今はそんなことをしている場合ではないのでは? 大作ですが、セリフを中心に話が進んでいくので次が気になり、とてもおもしろく読むことができました。 ただ深いです。人生はこのようなものかもしれません。>

<老ポーターのグスタフに頼まれて会いに行った女性ゾフィーと、少年のボリスは、記憶がよみがえってくると、ライダーの妻と息子らしい。街や建物や人々も、見覚えがあるものもあるが、時により記憶が定かではない場合もある。これはライダーの記憶が曖昧なせいか、それとも彼が疲れすぎていて、状況をきちんと整理できていないのか。ライダーは自分の予定を確認し、重要なものから片づけようとするが、次から次へと別の用件が入り、思うようにいかない。>

<時間・空間・人間の関係をすべて歪めて、夢の中にさまよいこんだような物語。目的地にたどり着けない焦燥・状況の細かなところが分からない不安感、現在の人間と過去の自分の重なり合い。同じような夢を繰り返し見る自分にもそんなカフカ的状況が切迫してきました。>

<時間軸がはっきりせず、夢の中のよう。急いでいるのに目的地へ辿り着けず、次々と湧いてくる頼まれごとや他人の人生に巻き込まれる。どの登場人物も心は何処か病んでいる。使命感はあるが、何も果たせない虚しさ。最後の晩餐ならぬ焼き立てのクロワッサン朝食を味わえた人生だったと思いたいが。人の一生ってこんなようなものかもしれない。>

<それにしても,こんな小説を,あの完璧な「日の名残り」の後に何くわぬ顔で発表しちゃうんですよ。カズオ・イシグロは黒い。素敵すぎる。やっぱり化け物だと思います。>

(https://bookmeter.com/books/472269)
(http://lfk.hatenablog.com/entry/2018/01/13/213838)
(https://www.kinokuniya.co.jp/c/20130505101506.html)

映画「かぐや姫」を観る

スタジオジブリの高畑勲監督の「かぐや姫」(2013年)をテレビで観た。
このようなアニメ映画を作るのに膨大な年月(8年)と人手それに費用(50億円)がかかっているという。
「日本の四季と豊かな自然の中で生き、時に荒々しく感情を爆発させ動き回る、かぐや姫を生身の人間として描いた物語であり、心に刺さるリアルな物語でもあった。ざっくりした描線で描かれたキャラクターと水彩で描かれた美術が美しく融合する。個人作家が用いる手描き線を生かす表現は、長編アニメーションでは困難を極めるが、高畑監督はこの表現にこだわり抜き、日本のアニメーション界の素晴らしい画家たちの力を結集し実現させた」という評がネットで紹介されているが(https://ja.wikipedia.org/wiki/)、その通りなのであろう。
ただ、登場人物がかぐや姫を含めあまり魅力的な人がいないのが、残念であった。
これは高畑監督の女性観や人生観なのであろうか。
描かれたかぐや姫は幼い頃は活発で自由奔放であり、成長して知的な美少女になるが、周囲の意向に合わせる控えめな日本女性になり、魅力的でなくなってしまう(ように思う)。
これは、昔の日本の男の描く理想的女性像としては当てはまるかもしれないが、時代錯誤を感じる。
高畑勲監督はこの映画で何を描きたかったのであろうか(「姫の罪と罰」?)

大学同窓(同期)会

大学の学部の学科(教育社会学コース)で2年間半一緒だった同期6人で(今は5人)1年に1度会うようになってもう10年近くになる。
歴史好きな人が多く(私を除く)、昨日(5月15日)は、JR国分寺駅に集合し、そこからI氏の車で、武蔵国府跡や大國魂神社を見学し、歴史に詳しいI氏よりレクチャーを受けた。I氏の博学ぶりには本当に感心する。
昔を懐かしみ、近況を報告し合うだけでなく、これからの国の行く末に関しても議論をして、有意義な会となっている。来年も皆健康で、会が開けるとうれしい。

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追記  仙台に戻っている水沼文平さんより、同窓会に関して下記のメールをいただいた。

仙台に戻って7月で丸2年になります。
高校を卒業して五十有余年それぞれの道を歩んできましたが、高校同期約80名で「三九学遊会」という同期会を作り、年に3回集合、講演2名と懇親会で旧交を温めています。
これ以外にも小人数で大学主催の講演や歴史散策、近郊温泉への一泊旅行などを楽しんでいます。その日その日を大事にかつ楽しみたいと思っています。
「政宗晩年の詩」
<馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦す所 楽しまずして 是を如何にせん>
今日友人の一人が入院したという連絡がありました。明日見舞いに駆けつけます。
私が初めて見る我が家の庭には、ノギク、シラン(紫蘭)、サツキなどが咲いています。野良猫3匹が毎日通ってきます。こんな近況です。水沼文平

欺瞞について

佐伯啓思「1968年は何を残したか 欺瞞を直視する気風こそ」(5月11日、朝日新聞朝刊)を読んで、同世代として共感するところがあった。

「私は、あるひとつの点において「全共闘的なもの」に共感するところがあった。それは、この運動が、どこか、戦後日本が抱えた欺瞞(ぎまん)、たとえば、日米安保体制に守られた平和国家という欺瞞、戦後民主主義を支えているエリート主義という欺瞞、合法的・平和的に弱者を支配する資本主義や民主主義の欺瞞、こうした欺瞞や偽善に対する反発を根底にもっていたからである。」「日本の左翼主義は、その後、急速に力を失ってゆくが、私には、それは、多くの人が感じていた戦後日本のもつ根本的な欺瞞を直視して、それを論議の俎上(そじょう)にあげることができなかったからではないか、と思う。沖縄返還問題にせよベトナム戦争問題にせよ、その根本にあるものは、米軍(日米安保体制)によって日本の平和も高度成長も可能になっている、という事実であった。そのおかげで、日本は「冷戦」という冷たい現実から目を背けることができただけである。この欺瞞が、利己心や金銭的貪欲(どんよく)さ、責任感の喪失、道義心の欠如、といった戦後日本人の精神的な退嬰(たいえい)をもたらしている、というのが三島の主張であった。」(朝日新聞5月11日、朝刊より転載)

 氏は、全共闘や三島由紀夫の欺瞞を排する心情に共感しながらも、その行動が「ごっこ」だったという江藤淳の鋭い指摘を紹介している。

「そのころ、評論家の江藤淳が「『ごっこ』の世界の終ったとき」と題する評論を書き、全共闘の学生運動も、三島の私設軍隊(楯〈たて〉の会)もどちらも「ごっこ」だと論じていた。学生運動は「革命ごっこ」であり、三島は「軍隊ごっこ」である。どちらも現実に直面していない。真の問題は、日米関係であり、アメリカからの日本の自立である、というのである。」(同上)

ただ、現実の世界、実際の生活はあいまいなものであり、欺瞞に充ちているので、そのあいまいなもの欺瞞的なものを受け入れ生活せねばならないのが現実である。
ここで大切なのは、現実の行動よりはその心情ではないかと思う。行動がたとえ欺瞞に充ちていても、心情的には欺瞞であることを自覚し、外からそれが欺瞞であると見破られやすいように行動するのであれば、それに対して人々はタテマエ上非難をしても、軽蔑することはないのではないか。
悪いのは、欺瞞を欺瞞と意識せず、表と裏を使い分け、その使い分けをもわからないようにして、人をだます手法である。
これは人にも政党にもあてはまり、人々から見放さられる。