今ジェンダーの多様化が言われているが、異性関係や結婚についての考えも多様化していると感じる。
これまで、恋愛→結婚という流れが一番幸せな道と考えられ、映画やドラマなどの描かれ方もそれに則っていたが、最近のものをみると、そうでもないものが多い。
NHKの朝ドラ「半分 青い」もヒロイン鈴愛と幼馴染律の関係が、惹かれあいながら、恋愛→結婚という流れではない。
アメリカのドラマGleeでも、主役の男の子(フィン)と女の子(レイチェル)の関係は、恋愛関係のように描かれる回は不自然で目を逸らしてしまうが、友人関係のような描かれ方の回は、いい関係だなと見惚れてしまう。
昨日(31日)BS、NHKで、昔の映画「カサブランカ」が放映されていたが、主演の男(ハンフリーボガード)とヒロイン(イングリド バークマン)の関係は、惹かれている感情を秘めながらも、それに沿った行動はとらず,別れ、それがなかなかよい感じに描かれていた。
投稿者: takeuchi
高校教師の特質
現在、高校教師のことを調べている。
敬愛大学の客員教授で、これまで小中高の校長を務めたことがあるS先生に高校教師の特徴について話をうかがった。その時聞いたことをメモする。
1 小学校の教師は全教科教えるが、中学高校の教師はそれぞれ専門の教科がある。中学高校の教師は、教科担当の意識が強い。
2 小学校教師は、1つのクラスで、1回限りの授業をすることが多いが、中高の教師は同じ授業を数回繰り返す。
その為、小学校教師は、その単元が学習指導要領や教師の指導書にどう書かれているかを参照することが多いが、中高の教師は、最初その個所を教える時、それらを参照するにしても、その後は何回も教える中で自分流のやり方を確立し、それらを参照することはなくなる。
3 中高の教師は専門の教科意識があるとはいえ、その程度は中高で違っている。中学の教師は浅く広く教えるので専門教科意識はそれほど高くない。高校の教師の専門教科意識はかなり高い。それに社会科や理科では、その中が専門の領域で分かれている(世界史、日本史、政経、物理、化学、生物。地学など)
4 中学校に入ってくる生徒は能力も特性もさまざまであるのに対して、高校は入試があり、学力で輪切りされて、それぞれの学校には、能力も特性も同じような生徒が入学している。進学校と非進学校、普通科と専門学科で、生徒の特質は違い、それに対応して先生達の意識や行動の違いが、学校グループ(類型)ごとに違っている。
5 高校グループ(類型)間の違いは、現在も明確にあるが(進学校は受験や勉強中心等)、昔に比べれば、その差は小さくなっている。 かっては非進学校で、校内暴力や荒れがあったが、今は生徒は皆おとなしくなっている。
6 管理職が部活動の顧問等になることはほとんどない。部活動で実績を上げることは、その個人の名声を高めることになるかもしれないが、それで管理職への道が開けるわけではない。部活動の指導で名声の高まった人には、私立から誘いが来る。
7 学習指導要領を読む(参照する)のは、教科書の採択時と、年度初めの年間授業計画を書く時だけである。それも改訂があった時に参照するだけである。
それも自分の専門の教科のところだけで、総則は読まない。
8 教師たちは、学習指導要領より教師用の教科書の指導書の方をよく読む。教師用の指導書には、学習指導要領の該当する箇所に関してもわかりやすく書かれている。指導書には教科書をどのように使えばいいかが丁寧に書かれていて、指導書を読めば、わざわざ学習指導要領を参照する必要がない。
9 それに高校の教師はそれぞれの教科の専門家であり、教育現場で長年教えてきている。その教育現場の実情をよく知らない文部科学省の役人や大学の教師の作った学習指導要領は、一般論として正しいことが書かれているのかもしれないが、具体的に教育現場で通用するわけではない。教育現場では自分の専門的知識の方が勝っていると、教師たちは自負を持っている。
36回学校社会学研究会で学んだこと
人の話を聞いて、感銘を受け、いろいろ考えさせられる場合もある。
先の学校社会学研究会で聞いて、考えさせられたことを書き留めておこう。
A 児玉英明さんの探求学習の話
1 「私は○○に関心があります」という文書を書き、次にそれを疑問文に転換しよう。
例えば、「私はトランプ大統領に関心があります」→「なぜ、トランプは大統領になれたのでしょう」というように。
2 問いには2つの形式がある。
① 調べることが求められる問い(「〇〇はどうなっているのか」(例 トランプを支持している人はどのような人か)
②考えることが求められる問い(なぜ?という問い)(例 なぜトランプのような変わって人が大統領になれたのか)
(学生に「調べてみたい問い」と「考えてみたい問い」を書き出してみよう、という問題を出す)
(大学の授業でも、この探求学習の方法を使えると感じた―武内)
2 鷲北貴史さんの 学生に大学の校歌や応援歌を歌わせることにより大学への愛着度が増すという話。
これに対する野崎さんのコメントに感心した。
鷲北さんの実践はsignificance (重要性)を学生に実感させる意味で成功しているが、大学教育ではそれをsignificatin する(意味を伝える、大学知と結びつける)ことをしなければならない。
(significance とsignificatinは、sign やsignify ということばから発生している)
3 私が、高校の学校間格差について、トラキングtrackingという言葉で言うこともできるかもしれないということについての、野崎さんのコメント
トラッキング(tracking)は、進行形であり、そのトラックに誘導する、押し込めるというニアンスがあり、客観的な形態以上の含意がある。
( 日本の高校には、大学進学率等で計ると高い低いの格差があるが、教育制度は単線系であり、格差の下位の高校の生徒も大学進学を諦めるように高校や教師から指導されるわけではない。特に最近は専門学科(職業科)の高校からの大学進学も増えている。それを考えると、日本の高校はトラッキング(システム)の中にあるとはいえない。日本の高校にトラッキングという言葉をあてはめない方がいいように感じた―武内)
学校社会学研究会36回大会終わる
一昨日(8月25日)と昨日(26日)、学習院大学で開かれた36回学校社会学研究会が盛会のうちに終わった。
開催校の野崎さん・井口さんには2回に渡り大変お世話になった。学習院大学という都心の素敵なキャンパスでの開催で議論も弾んだ。懇親会も美味しい中華料理をいただき思い出に残る会になった。
発表は常連と若い院生の発表があり、こじんまりとした中で、濃密な議論がわされ、小さな研究会のよさを感じた(30余名の参加)
特に、中国から留学生(筑波大学や中央大学)の優秀さに驚かされるものがあった。
この会は毎年夏に2日間に渡り開催され、今年で36年目を迎えた。よく続いたものだと思う。来年からは新しい幹事のもとで、さらに発展すれば、この会を始めた故清水義弘先生(元東大教授)も、喜ばれることであろう。