今日から11月

ハロウイーンも終わり、今日から11月。
秋や冬の花が咲いている一方、夏の朝顔も健在。
どのような11月になるのか。楽しみ。
祝日もほとんどなく(敬愛では23日も授業がある)、授業に専念することになるのか、
合間を縫ってどこかに紅葉を見に行くことができるのか、
スポーツ(テニスと卓球)に打ち込むのか(テニスの誘いもいろいろある)、
読書の秋にできるのか。
歳を取ってくると、健康や体力、気力との勝負。

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弱者とのかかわり(その2)-水沼文平さんからのコメント

「弱者とのかかわり―何もできない後ろめたさ」を拝見しました。認知症のおばあさん、虐待を受けた(?)仔猫、10年前のキャバリヤ犬のことに強い共感を覚えました。
世の中には障害者(身体・知的・精神)、高齢者、子どもなど社会的に弱い立場の人がいます。このような人が困っている時に何かして上げたり、何もできなかったりします。大事なことは、困っている人に何かしてあげたいという「思いやりの気持ち」と何もしてあげられなかったという「後悔の念」を持つこと、その懐いた気持ちを忘れずにいることだと思います。

友人達とグループネットで情報を交換しています。A君からのメールです。「〇駅か
らバスに乗車し、降車までの途中に精神障害児が通う施設があり、時々その生徒が乗
車して来ます。大声で奇声をあげて話し出したり、突然歌を歌ったりする事に遭遇し
ます。車内の雰囲気を観察していると、穏やかな雰囲気で児童を見守る人もいれば、
煩そうに冷たい目線で傲慢な態度を取る老人もいて様々な光景に出会します。先日
は、なんと運転手が大声で児童に注意したので、私はその運転手に公衆の面前で注意
しました。」

B君からのメールです。「知的障害者の親として一言。A君、運転手への注意有難う
ございます。知的障害者の特性としてさまざまな行為があり、その特性を一般の人々
に理解してもらうのが難しい状況にあり、障害者の親の団体として「知的障害者への
理解」を毎年の活動目標としています。多くの人に理解してもらえたら、親も安心し
てあの世にいけると思っています。A君にこのような行動をとっていただき感謝して
います。」

このようなことに関連するものとして、今週新聞で見た三つのことに触れたいと思い
ます。一つ目は、戦時中の韓国人の徴用を巡り、韓国の最高裁判所が30日、日本企業
に賠償を命じたこと、二つ目は東京電力が事故を起こした福島第一原子力発電所の写
真に、工場の鑑賞を楽しむという意味の「♯工場萌え」というハッシュタグを付けて
インスタグラムなどに投稿したこと、三つ目はまたもや東京電力ですが、東電強制起
訴公判で勝俣元会長が「津波危険性に関する報告はなかった」と証言したことです。

韓国に対する戦後賠償は終わっていますが、植民地化され言葉と名前を奪われ、もろ
もろに酷い目にあった韓国人の「恨み」という感情は消えていません。今回の判決に
対して日本政府は反発していますが、お金で全てが解決すると思ったら大間違いで、
日本が戦前・戦中に近隣諸国で行った蛮行を率直に反省し、被害者の身になって真剣
に考え、そのことを相手に伝える努力が必要です。大戦後ドイツの近隣諸国に対する
物心両面での謝罪に学ぶべきことが多いと思います。東京電力に関しては「♯工場萌
え」と、大きな津波を何度も経験している日本では考えられない勝俣元会長の証言は
「厚顔・無神経」という意味では同一レベルのものです。

先日自転車で田舎道を走っていたら車に挽かれた猫の死骸が横たわっていました。何
台も車が通りますが皆な大回りで避けていきます。私は尻尾をつかんで近くにあった
ゴミ集積所に置いてきました。世の中のために何もできませんが、これまで生かして
もらった恩返しに、これぐらいのことはやっていきたいと思っています。
(ペットの火葬場まで持っていくという気持ちまでは持てませんでした。「情けは人のためならず」修行不足ですね。反省しています。)(水沼文平)

弱者とのかかわり―何もできない後ろめたさ

弱い人や動物とのとのかかわりは難しい。
先日、乗っていたバスに途中乗ってきたおばあさんは、どうも道に迷ったようで運転手に尋ねていて、傍の人も手助けしているが埒があかず、次のバス停で降ろされた。少し痴呆が入っているようでそのような見知らぬバス停で降ろされても困るだろう、誰かが目的のバス停まで連れて行くか、交番まで連れて行くかする必要があるように思われたが、そこまで親切にする人はいない。私も先を急いでいてそのような余裕はない。でも、大丈夫なのかと心を痛めた。
昨日、テニスをやりながらふと傍の道路をみると、生まれて1か月経つかどうかという子猫がこちらに助けを求めるように寄ってきた。よくみると片目がつぶれており、尻尾も折れていて、これでは飼ってくれる人はいないと思われる痛々しい子猫であった。
あまりの、痛々しさにテニスをやる気も失せて、どうしようか思案した。動物病院に連れて行き、手当てをして傷の回復を待って飼い主を探すというのが一番理想的な方法であろうが、そのような余裕が私や家族にはない。
10年ほど前、稲毛海浜公園に捨てられていたキャバリヤ犬を妻が気の毒に思い、病院に連れて行き、病院で3泊して手当てを受け、家に連れ帰り、近所で飼ってくれる人を探して、事なきを得た経験があるが(その詳細は2012年5月13日のブログに書いた)、今回の子猫の様子を見ると、昔のキャバリア犬以上に重傷のようで、気の毒であるが、どうしようもないと思った。
それでも、テニスをやめて、家に急いで帰り、猫の餌と牛乳を持ってきて、子猫のそばに戻ってみたが、通りかかった中学生数人が子猫を囲んでどうしようと相談していた。「とりあえずこの餌と牛乳をやってみて」と言って中学生たちに手渡し、私たちの役割はそこまでと思い、後ろ髪を引かれながらも、帰った。
 どちらのケースも、自分は何もできなかった、何もしなかったという後ろめたさを感じた出来事であった。この気持ちは忘れず、次の機会に何かできることがあればしようと思った。
 このような周囲の弱いものへの手助けが根本的には何もできないということは多いのではないかと恐れる。

オーケストラの新しい形

昨日偶然、すみだトリフォニーホールで聴いたアマチュアの「オーケストラ」(正確にはアンサンブル)、サンシティアンサンブル(music.geocities.jp/dssgb413/)の演奏に、大変感銘を受けた。
それは、その日のメインの女性合唱団の定期演奏会の友情出演で4曲ほどの曲を演奏したものだが、25人ぐらいのアマチュアのアンサンブルが、1800人入る会場の聴衆を魅了した演奏であった。
「真田丸」のメーンテーマの演奏も心に響いたし、「新世界」の第4楽章、交響詩「フィンランディア」の演奏も素晴らしく、大迫力で魅了された。
その最大の理由は、シンセサイザーの演奏にある。
このアンサやンブルの編成は、弦楽器と木管楽器のみの編成で、トランペット・トロンボーン・ユーホニウム・チューバ等の金管楽器やホルン・サックス奏者はいない。
その代りをシンセサイザー4〜5台の演奏が果たす。シンセサイザーがトランペットやホルンやシンバルなどの音を奏でる。その音が素晴らしく、弦楽器と木管楽器とのコラボが見事で、全体の演奏を引き締め、迫力も抜群であった。
普通大編成のオーケストラの演奏でそのよさが味わえる「新世界」「フィンランディア」の演奏も、25人余のアンサンブルで可能であることを証明した演奏であった。

「シンセサイザー恐るべし」と思った。まだ微妙な演奏の弦楽器の音をシンセサイザーで作ることはできていないのだと思うが、これからITの技術がすすめば、その分野もシンセサイザーにとって替わり、オーケストラの形態が変わると感じた。
音大もピアノ科ないし[シンセサイザー科](?)が優位になる時代が来るのではないかと思った。
このような編成、演奏が可能なのは、編曲者の存在も大きく、今回の指揮者・編曲者の吉元貴弘氏(www.jsbach260.shop/sp/topics.html )によるところも大きいのであろう。
これから音楽(オーケストラ)の形が変わるなということを実感させられた演奏会であった。

アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)をどう教えるか

敬愛大学の「教育課程論」の授業で、新学習指導要領で提起されている「生きる力」や「主体的、対話的、深い学び」の一般的な内容を学生に説明し、学生もそれを概念的には理解してくれたことはわかるが(前掲ブログ参照)、次にそれを具体的な例で説明し、学生にわからせるというのはとても難しい。
どのような例で説明すれば、学生がそれを認知するだけでなく主体的に考え、自分の言葉で人に説明し、行動(実践)にまでもっていけるようになるのかかわからない。
一般論を理解してもらい、個別の例や実践は各自で考えてもらえばいいというのが、私のこれまでの考えだが、今回だけは、何か具体的な例はないものかと思案した。

 そこで、まず、アクティブラーニング(主体的・対話的で深い学び)に関しての第1人者である溝上慎一氏の文章から学び、学生にそれを理解してもらい、そのエッセンスの具体例を考えた。
 溝上氏の「深い学び」のエッセンスの一つは「関連づけ」ということである。外から教えられる知識や技術を被教育者(学習者)が、自分の持っている興味関心や認知と関連づけて受け取り(アウトサイド・イン)、自分の言葉で他者に伝え、行動に移していく(インサイド・アウト)というものである。
その説明の文章を抜粋して配り読んでもらい、要点を説明し、学生の理解を促した(添付参照)。

その後、下記のような問いを学生に出し、自分でいろいろ考え、学生同士の意見交換をしてもらった。
学校や大学で教えられた内容が、自分の興味関心と触れ合い、自分の認知や考え方、感じ方に付加や修正を及ぼされたことがあるのかを聞いてみた(問4)。
それから、以前に苅谷=児玉氏が提起していた問(2017年8月27日ブログ参照)を意識し、問5のような質問をしてみた。
学生は、自分の関心のあることに対する問5-1、2(質問文)を作ることには興味を示し、授業はいつになく盛り上がっていたように思う。(下記参照)
ただ、問5-3のように、それは調べればわかることなのか(A),自分で考えること(B)なのかという質問はあまり意味がなかったようで、その二つが必要というものが多かった。 調べる場合は、専門家や関係者に聞くというものもあるが、インターネットというのがほとんどで、百科事典や辞書や本は必要ないと学生達は思っていることもわかる。

教育課程論(第4回)リアクション   2018年 10月26日        
              番号      名前
1 前回のリアクションを読んでの感想
2 溝上慎一『学習とパーソナリティ』では、どのようなことを強調しているのか。
3 あなたは、社会に出てから人と協働して仕事をすることは、どのくらいのあると思うか。    → (      )%くらい。
4 自分の興味や関心のあることが、学校や大学の授業で関連つけられたり、深められたりしたことがありますか。(「主体的、対話的、深い学び」になったことがありますか)
5-1 「私は○○に関心があります」という文章を書きなさい。
5-2  次にそれを疑問文に転換しよう。 (例、「私はトランプ大統領に関心があります」→(例「なぜ、トランプは大統領になれたのでしょう」
5-3 それは「調べることが求められる問い」(A)ですか? それとも「考えることが求められる問い」(B)ですか? → A    B  
6 5-2の内容(疑問文)に関して、どのように調べたり、考えたたりすればいいのか、人の意見を聞いて、考えてみよう(その結果を記載する)
7 他の人のコメントをもらう。
(    )→
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リアクション 5-3  ( 自分の関心あることを、疑問文で述べなさい)

なぜ教育はこんなに深いのでしょう
子どもにとって幸せな環境とは何か、大人がしてあげられることは何か
なぜいじめがあるのでしょう  / なぜ数学が嫌いな子どもが多いのか
なぜ子どもたちは人の行動をまねるのでしょう
なぜ児童英語というものが生まれたのでしょうか
なぜ小学校の先生は必要なのだろう?
なぜ哲学というものは誕生したのだろうか (ふたり)
なぜ、倫理は人の関心を引き付けるのでしょう/
なぜ無意識の行動が皆ほぼ同じなのか 明確な理由のない人の行動を知りたい何が自分のモチベーションになるか、どのような状態になった時自分を抑制できるのか?
友だちって何? どこから友達?という考えに関心があります。
なぜ(他)人は一人ひとり性別,性格、身体、その他、違うのか
なぜ音楽はこんなにもさまざまな気持ちを与えてくれるのでしょう
なぜ音楽はこんなにに人を惹きつけるのでしょう
なぜロックが誕生したのでしょう  
なぜ乃木坂46はここまで人気になったのか
なぜ、K=POP は今、人気なのでしょうか /TWICEとは何か?
なぜ野球というスポーツが生まれたのでしょう
なぜ、バレーボールというスポーツが生またのか?
なぜバレーボールは背が高い人が有利になるか
なぜ人々はスポーツをするのでしょう  /  なぜサッカーは11人なのか
どのように人は体を動かしているのでしょう
なぜ弓道は1本の矢を放つのにたくさんの動作が必要なのでしょう
なぜイチローは一流になれたのでしょうか
ななぜ桃田優斗は繊細なバトミントン技術を得られたのか
なぜジブリは国内外で多くの人に見られているのか
なぜディズニーランドはあんなに人気なのでしょうか?
なぜゲームは人気が出るのか
なぜポケモンが出来たのでしょうか /       /
決められた食材でより美味しく栄養価の高いものを作るにはどうしたらいい
なぜ特攻隊が必要であり,実戦に使われたのでしょう
なぜジャンヌダルクは聖女と呼ばれたのか