読書談義

 先週のNHKスペシャルでは、健康年齢を若くするためには、「本や雑誌を読む」(読書)が一番いいという結果を、AI(人工知能)が出しているということが話題になっていた。

 敬愛大学の1年生の授業で、「カズオ・イシグロの本を読んだことのある人」と聞いたら、皆無であった。ノーベル文学賞を獲った人の本ですらこのあり様であるから、大学生の読書離れはかなり進んでいるのであろう。(そうは言う私もこの頃読書量は減っているので、偉そうなことは言えないが)。

 仙台にいる水沼さんと、読んだ本のことがメールで、少し話題になった。(一部転載)

(水沼)大学生に先生のブログの記事を読ませて意見を聞くのはアイデアだと思います。大学の教材にはなかなかありませんからね。学者とか学問とかが学生たちに身近に感じさせる機会になると思います。
 私は「日の名残り」を読み直し始めました。すばらしい作品は何度読んでもいいもの
です。
(武内)「日の名残り」は、私も一番印象に残っている本で、英語でも読もうと試みましたが、挫折しています。DVDも購入したのですが、どうしたことか、うちの器械でうまく再生できず。そのままになっています。再度、試みるつもりです。
(武内)前回出したメールに誤りがありました。私がカズオ・イシグロの小説で、一番感銘を受けたのは、最初に読んだ「私を離さないで」でした。途中でクローン人間の話と分かりその心情に思いやり、とても衝撃を受けました。
「日の名残り」も伝統的なイギリスらしさがわかり、いい小説だと思いました。ただ主人公の執事の行動がもどかしく、現代の人が読んだら、なかなか共感できないと思いました。 昨日、私も「日の名残り」を読みかえし、アマゾンでレンタルしてテレビで、映画も見ました。やはり、最初に本で読んでしまうと、映画の方は「そこは少し違うな」と思ってしまう箇所がいくつもありますね。ミス・ケントは、小説で想像していたより素敵な女性でしたが。
(水沼)父の代からの執事の仕事に誇りを持ちながら貴族社会では執事は執事に過ぎません。アメリカから新しいご主人がやってきて、主人公を人間らしく扱います。そして主人公はご主人の車で昔の女性パートナーをリクルートに行きます。
 階級という社会が作り出した偏見のもと、旅をしながら貴族の振りをする主人公が哀れですね。最終的に彼が何を得たのか分かりません。武内先生がおっしゃる「まどろかっしさ」がそこにあります。
 カズオ・イシグロはタイトルですべてを語るところがあります。「日の名残り」に私は蕪村の「山は暮れて野は黄昏の薄かな」を連想します。子どもの頃、遊びに遊んだ一日が終わり、友達が一人ひとり家に帰り、田んぼの真ん中に独り取り残された私が見た光景が「日の名残り」でした。私にとっての「いい時代」が終わり、競争社会に取り込まれていく境目だったのです。
 雑草だらけの庭から昔のままの国見峠に沈む夕日を見ることができます。「日の名残り」に魅かれるのはこんなところから来ているのかも知れません。 
(「日の名残り」に関しては、2018年2月18日のブログでも言及している)

追記 卒業生より下記のコメントをもらった。
<そもそも人生で読書らしきものをしたことがない学生も多そうですが、現在、または過去にどのような読書をしてきたかを聞いてみると面白いのでは? 斎藤孝が『読書力』かどこかで、そもそも大学生(しかも教職課程)で読書の価値自体を認めない/否定する層がいることを書いています(『読書力』自体が10年以上前の本ですが)。読んでいなくて恥ずかしい、という前提自体が必ずしも成り立たない。>

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哲学が苦手ということ

いつ頃から、どんなきっかけで哲学な苦手になったのかよくわからない。たまたま、哲学をきちんと学ばなかったのかかもしれない。
大学1年生の時、教養科目で受講した「倫理学」の授業(担当は佐藤俊夫教授)は、いつも二日酔いのような赤い顔で講義されていたが、内容はおもしろかった。
学部3年生の時、太田堯先生の教育哲学的な「教育学概論」の授業を必須で受講したが、学期末の試験問題が「教育とは何か」という問題で、一生懸命に書いたが、評価は「可」だったので、きっと哲学的な考察は全くできていなかったのであろう。
上智大学の教育学科に勤めていた時は、専門の教育社会学の論文だけでなく、教育哲学専攻の学生や院生の卒論や修論も副査として読まねばならず苦労した。学生や院生も哲学のことが何も分かっていない教員(私)に論文を読まれ、勝手なことを言われ、さぞ迷惑したことであろう。
「教育とは人間を人間にすることである」というフレーズが教育哲学の院生の論文にあり、「これはどういうこと?」と素朴に聞いてしまったが、嫌味の質問としてしか取られなかったように思う。

最近、社会学者の大澤真幸が、有名な哲学者のロールズの「正義論」の紹介をしている記事を読んだ(朝日新聞 10月13日)。
<自分の国籍も性別も資産も才能もわからなくなる状況で、人々はどんなルールに合意するだろうか。例えば自分が裕福なら、格差原理には賛成しないだろう。しかしそれは格差原理が正義に反しているからではなく、その人の利益に反するからだ。
正義かどうかは、自分が裕福か貧乏かわからない人が(「無知のヴェール」)、何に合意するかで決まる。>
<人は自分が所属する共同体を超える普遍性を求める。人類にとって何がよいのかを考えずにはいられないのが人間だ。>

これは、社会学の用語でいうと、個別主義(自分とのかかわり)を超えたところの普遍的な観点からの選択(政策)が、正義の原理である、とロールズは言っていると解釈できる。それなら私でも理解できる。
このように、哲学の論理を社会学的に解釈していけばいいのかもしれない。暇だし、少しずつ哲学も学んでいってみようと思うようになっている。

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稲毛海浜公園に行く

今日(14日)も海が見たくなり、子ども(孫)と犬(ソフィー)が行きたがっているという理由で家族を説得して、車で稲毛海浜公園に行く。
 秋だというのに、花の美術館(maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/3182/
)の外の草花はあまりぱっとしない。今年は台風の塩害で草木がかなりやられてしまったとのこと。
 それでも、外のコスモスや、ハロウイーンの飾りつけが美術館の中にはいくつかあり、子ども達は楽しんだ。
 公園では、コスプレして、写真撮影をしている若者も何組かいた。
 ソフィー(犬)も、公園の芝生と海岸を久しぶりに散歩して(少し駆け回り)、老犬の元気な姿に、人間も元気付けられた。

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ブログについて

以前にも書いたが、私のこのブログは、「いいね」もできないし、返信のコメントもできない(実はよくみると出来る)、私の日記のようなものであるが、時々人に読んでもらいたくなり、その一部をコピーして、授業で配り、学生に読んでもらうことがある。
先週の敬愛の授業(教育こども学科1年生42名)で、少しは教育に関係のありそうな内容をピックアップして配り(添付参照)、その内容を授業の余った時間10分程度で説明した。感想も少し書いてもらった。その感想をこれから読む。(「先生も暇ですね」という感想が多いと思うが)

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学校の「楽しさ」について

先週土曜日の午後、枯葉がハラハラ落ちて来る団地のテニスコートで、テニス仲間5人で1ゲームずつ交代で、ダブルスの試合をした。勝ち負けにこだわらないのんびりしたテニスで、「いいな」と、テニスをやる「楽しみ」をしみじみ噛みしめた。
このような、「楽しさ」は、卓球をやっている時は感じない。今は少し卓球に凝っていて、テニスより卓球をやることの方を楽しみにしているところはあるが、卓球仲間は私より数段上手で、卓球をやっている時は必死で、卓球に集中している。「楽しむ」どころではない。ただ終わってから「楽しかったな」と思うことはある。そして次にできる機会を楽しみにしている。

このように「楽しさ」というものは、それをやっている最中に感じるものと、やっている時は感じないで、その前後に感じるものがある。

学生に学校のことを考えてもらう前段階として、過去に通った学校や今の大学の「楽しさ」について次のような質問で考えてもらった。(受講生 13名)
 質問 「これまでの幼稚園・保育園、小学校、中学校、高校、大学の、楽しさは、どの程度ですか。 それぞれ、番号で答えてください。」
1 とても楽しかった 2 かなり楽しかった 3あまり楽しくなかった 4 全然楽しくなかった
 幼稚園・保育園( )、小学校(  )、中学校(  )、高校(  )、大学(  )

その結果は、「とても」と「かなり」「楽しかった」の回答を数えると、幼稚園・保育園10名、小学校12名、中学校9名、高校7名、大学10名という結果であった。この回答はサンプルが少なく、また特別支援の学校の教師志望の学生が多い中での結果なので、一般化はできない。
ただ、普通は高校が一番楽しい時として、学生は答えると、私は思っていたので、今回の結果は意外であった。

私の場合はどうかと考えると、小学校の時代が一番楽しく、その後中学、高校、大学と行くにつれて、「楽しさ」は薄れ、辛さが増していたように思う。ただ、今に役立っているのは(それは、今から考えれば「楽しかったこと」と解釈することができる?)、その逆の順序であったことと考えると、「楽しさ」とは何だろうと思ってしまう。
旅行の楽しみは、行く前(期待感)、旅行中、行った後(思い出)の3つがあると言われるが、学校の「楽しみ」は、どこに求めればいいのであろうか。