職場と住むところを移動することについて

農耕民族と狩猟民族では、安定や心の安らぎの形態が違っていることであろう。農耕民族は一定の地域に定住し土地を耕し作物を育てる。狩猟民族は獲物を求め常時移動する。                                           日本人は農耕民族であり、一箇所に定住してこそ心の安定が保てる。日本人も近代以降の社会では産業が農業から工業や第3次産業に移り,地域移動が常態となり、教育や仕事の為に故郷を離れざるを得なくなり、遠くにある「ふるさと」の歌を口ずさみ、心の安定を図るようになる。退職してふるさと(故郷)に戻る人もいるであろう。

インドや世界を長く旅して今は東京・千葉に住んでいる藤原新也も、ふるさとの九州・小倉のことにはよく言及している。小倉の少年の写真集を出したり、自身が出身の小倉の小学校で先輩として授業をしたりして、郷土愛が深い。その藤原新也が、仕事場に関して、興味深いことを言っている。      
「(その場所を)味わい尽くした」「仕事でものを生産する場所は5年ごと移る」「表現というものは熱量を使い、場というものは畜熱量を持っており、その熱量を使い切るのが5年程度と考えているからだ。そこをフルに使うと場が腑抜けになってしまう」。しかも、藤原の場合その場所から移動するときは、どんな気に入った家具も現捨離していく潔さがある。

他の職業でも、藤原を見習うべきかもしれないと思った。同じ職場に長く務めるとそこがどれほど居心地のよいところででも、煮詰まってしまい、緊張感が薄れてしまう。何か新しいことをなすためには、勤務先を移り、新しい挑戦をする必要がある。農耕民族の日本人にはなかなか受け入れがたいが。

藤原の場合は、仕事場に関して言っていて、住むところ(の移動)に関しては何も言っていない。しかし狩猟民族やジプシーにとっては住むところの移動も当たり前になっている。村上春樹は引っ越し好きで、引っ越しはいろいろなものが一切チャラになりいい、というようなことを書いていたと思うが、これは作家として必要なことかもしれない。また村上春樹に狩猟民族の習性があるのかもしれない。(村上はアメリカはじめいろいろなところに住んで、新しい小説を書いている) 

(千葉を一度も離れたことのない私が、人の移動の大切さをいくら説いても、説得力はないが)。

通学・通勤電車と読書

「読書に集中しようにも家では気が散るし、喫茶店も長居がためらわれる。結局、通勤電車の中がいちばん本の世界に入り込める。ならばいっそ本を読むために旅に出てはどうか。そう考え、書店員の高頭佐和子さんがときおり実践するのが「遠征読書」だ(天声人語、4月27日)」

最近読書量が減っているのは、自分の齢のせいや意欲の衰えかとおもっていたら、この文章に出会い、そういえば学校や大学への通学・通勤時間がなくなったせいもあると思い当たった。

私は中学生の時から半世紀近く、千葉(市川、稲毛海岸、稲毛)から東京(御茶ノ水、赤坂見付、駒場、本郷3丁目、江古田、四谷)(非常勤では三鷹、戸塚、十条、幕張本郷)へ通勤電車で通い続けた。その間の往復約3時間の時間は、誰にも邪魔されない貴重な読書時間であった。集中して本が読めた。勤めてからも、家にいてはやらなければならない家事や雑用が次から次に襲ってくるし、大学に行っては、授業の他に会議があり、電話があり、学生や院生や卒業生も訪ねてくるし、落ちついて読書できる時間はない。通勤電車だけが唯一、本を読める時間であった。

退職して限りなく時間があれば、いくらでも本が読めるではないか、そう思っていた。しかし、実際は読書時間が減っている。時間があると、ついいろいろやらねばならないことを思いついて(例えば犬の散歩、子どもの相手、庭の草むしり)、それに時間を費やし、読書は後回しになる。やはり、何か強制力がはたらく時間が必要のようだ。

病院に行くと待ち時間が長く、かなり本が読める。でもあまり病院には行きたくない。やはり「遠征読書」がいいかもしれない。また千葉にも高齢者用の「乗り放題バス」のパスがある(東京では都営地下鉄にも乗れるパスがあると聞く)。それを買い、本を持ってバスや電車に乗りいろいろなところに行くのもいいかもしれない(作家の村上春樹は午前中は執筆の時間に当てていると書いていたように思う。そのように自宅にいても、午前中は読書の時間と決めればいいことなのだが)

人への評価について

私たちは、いろいろなところで人を評価していると思う。その評価の高低は、どこに比較の基準を置くかで違ってくるし、もう一つはどの部分を評価するかでも違ってくる。

古今東西の一番優れた人と比較すると、ほとんどの人は低い評価になってしまうのではないか。社会学でいえば例えばM.ウェバーと比較すれば、現代のどんな優れた社会学者も低い評価になるであろう。

人を評価するとき、自分と比較することも大事だと思う。自分だったらどこまでできるのかと比較して考えると、たいていの他人は自分より優れているとなるのではないのか(少なくても私の場合は)。たとえば研究者の著書や論文を評価するとき、いろいろ欠陥が目についても、自分だったらどこまで書けるだろうと思うと、その著者を高く評価せざるを得ないように思う。自分のことを棚に上げての評価はフェアではないように思う。

「ある人が優れた論者かどうかは、読み手が専門(ないし得意な分野)のことを、その人が書いている部分を読めばすぐ判定できる」というような内容の文章を読んだ記憶があるが(吉本隆明の著作だったかもしれない)、それは厳し過ぎるように思う。優れた論文や著作が1つでもあれば、その人が他に書いたものが駄作であろうと、その人の優秀さは評価すべきであろう。特に専門外のことに関しては。そんなに人は四六時中またすべての分野で優秀であることはできない。(藤原新也が教育のことで書いている文章で、その内容は稚拙だと感じたことがある。だからと言いって氏への評価を低めたわけではない)。時間や体力や気力が限られている中で、人は言い訳せず、頼まれた仕事をこなしているだけである。

(追記 上野千鶴子は、社会学者としてやジェンダー研究者としてすごい人だなと思う。それは著作などを読んだ印象(評価)からくるもので、講演や新聞記事からは少し違った印象がある。昔上智大学で行われた講演を3回ほど聞きに行ったことがあるが、そのうち2回は女性学の入門かアジテーションのような内容で、かなりがっかりした(忙しくて手抜きの講演だったのか、上智の学生や教職員を馬鹿にしているのか、と思った)。ただ後一回の上智の「社会正義研究所」の招きによる「戦争と女性」に関するシンポでの講演は学術的でとてもいいもので感心した。今回東大の入学式の上野千鶴子の講演が新聞やネットで話題になっているが、その内容を読むと、女性学や社会学のありきたりの内容しか言っていない。東大の新入生を意識の低い若者と思い、ジェンダー論をアジったとしか思えない。このような出来事を取り上げるマスコミの見識も疑われる。氏は時々「政治的な行動」をする人なのでこのようなことがおこると思うが、それで氏の学問的業績が損なわれるわけではない。(東大の入学式では、いつもは東大の総長が格式の高い話をして話題になるのに、なぜ講演を別の人(上野)に任せたのかも不思議だ)

社会的貢献について

どのような職業に就くにせよ、その職業に就くのは、生計を立てたいということ同時に、社会に貢献したい(人の為に役立ちたい、社会をよくしたい)という気持ちがあるのであろう。ただ、その社会への貢献の仕方は職業や役職によって違う。

教育の分野でいえば、現場の教師として児童・生徒に接し、その子らの成長に貢献したいという人もいれば、校長になったり教育委員会に勤め、教育の条件整備をしたり教師を指導したりして(日本の学校)教育の質をあげたいと考える人もいるであろう。

大学教師の場合も、自分の研究に打ち込む人、学生の教育に情熱を注ぐ人、大学経営に生きがいを見いだす人、社会的に活躍する人など、いろいろである。私の知り合いでは、研究の分野では優れて有名な人は多くいるが、大学の学長になったり、社会的に有名になり、時の教育政策や世論に影響を与えている人はあまり見あたらない。それは、「教育社会学」というどちらかというと世の主流に対しては懐疑的、批判的なスタンスを取りがちな学問の性格から来ているのかもしれない。ただ、教育社会学はデータを扱い、データや実際の事務の処理には得意なので、大学の実務を担当する副学長に就く人は少なからずいる。しかし学長になる人は少ない。

若い頃から知り合いで友人の明石要一氏(千葉大名誉教授・千葉敬愛短期大学学長)が第10期の中央教育審議会の生涯教育分科会の分科会長になったという新聞記事を読んだ。頑張ってほしい。