授業のスピードについて

大学で授業をやっていて、少し気になる点がある。私の授業での説明のスピードは、学生の理解のスピードと一致しているのかどうかということである。私の授業では、毎回たくさんの資料(それも文字数が多い)を配布し、それを読み、私の説明を聞きながら、リアクション(質問)用紙に答え(自分の考え)を記入していくという形式をとることが多い。学生の理解の進度はまちまちだと思うが、私の説明を聞くより先に(あるいは私の説明を聞かずに)、資料を読んでリアクション(質問)に答えを書く学生が少なからずいる。そして書き終わると机の下や本の陰のスマホを見はじめる。私の話のスピードが学生の理解のスピードと合わず、私のスピードに合わせるのが苦痛で、自分のペースを保とうとする学生がかなりいること感じる。

いい授業は、きっとこのようなものではなく、教師の話に皆聞き惚れ、教室に一体感が生じるものであろう。あるいは、教師の話から自分の興味や関心が開発され、自分なりの深い思考に各自が入り込んでいることが伺えるものであろう。

私の場合、配布した資料を音読することはしない。「資料のAを参照してください。そこでの要点は何々です」と言って、短時間で次の説明に移ることが多い。学生たちは、その資料の内容を読み取っているのかどうかがわからない。後で学生の書いたものを読むと要点を読み取っている学生もいることはわかるが、それが学生のどの程度の割合なのかはわからない。資料を読みとるスピードは、つい自分の速度を基準に考えてしまうが、教員と学生の理解のスピードは違うであろう。そうかと言って、学生の平均のスピードに合わせると、授業の速度が遅くなり、だらけた授業になるような気がする。授業のスピードをどの程度にすべきかなかなか難しい。大学教師たちは、皆どうしているのであろうか。

「教育社会学の20人」

教育雑誌「教育展望」201911月号に、日本教育社会学会編『教育社会学の20人―オーラル・ヒストリリーでたどる日本の教育社会学』(東洋館出版、2018)の本の案内を書かせていただいた。清水義弘先生、潮木守一先生、天野郁夫先生はじめ、教育社会学の諸先生や諸先輩の先生方の研究経歴や研究への思いが満載の本に感銘を受けた。

教育社会学は戦後に講座や科目ができ、伝統的な教育学の中で実証性を重んじ、研究を進めてきた新興の分野である。教育学が理想や実践を重んじるのに対して、教育社会学は現実や実証や批判的観点を重んじ教育実践への寄与があまりないようにみえる。しかし教育の現実を規定する社会的要因(階層、ジェンダー等)や教育組織の解明、教育の実態に基づいた政策的提言は、教育の理想の実現に欠かせないものである。

本書は主に日本の戦後の教育社会学の主に第2世代(第1世代が基盤を築いた後に活躍した世代)の20名の研究者の歩みをオーラル・ヒストリリーの手法で記録に残したものである。この手法は聞き手に恵まれると自分史以上に興味深い内容になる。自分では気が付いていない分野にも、聞き手の質問によって思いを走らせるようになるからである。学会70周年記念行事として第3世代の加野芳正会長(当時)のもとで吉田文と飯田浩之が責任編集者となり、学会の総力を挙げての聞き取りや編集が行われた。教育社会学の研究者のみならず、教育関係者、歴史研究者が読んで参考になる本である。

一つの新興の学問分野が市民権を得るまでには、既存分野との葛藤や戦い、個人や組織の並々ならぬ努力があったことが当事者の語りからわかる。個々の研究者が教育社会学という分野にたどりつくまでにどのような出会いや紆余曲折があったのかが示され、研究者のライフ・ヒストリーとしても興味深い。

高等教育研究としても読める。実学・政策重視の東京大学、理論研究や文化の濃厚な京都大学、高等師範の伝統の東京教育大学,文理の伝統の広島大学、地方国立大学の教員養成学部など、大学の出自や伝統が違うとそれぞれの研究者の研究やその特質に差異を生じさせていることが読み取れる。

教育社会学研究の今後に関しては、柴野昌山京都大学名誉教授は「理論パラダイムの歴史性感覚」をあげ、新井郁男上越教育大学名誉教授は、「社会学的視点での研究、教員研修」の重要性を指摘し、深谷昌志東京成徳大学名誉教授は「子ども支援の実践家との連携が大事」と述べ、天野郁夫東大名誉教授は「教育現場を批判的に斜に構えて見るような教育社会学では現場の力になりえない。もっと教職・教員養成の問題に応えていかないといけない」と述べている。今後の教育研究と教育実践との関係を考える一書にもなる労作である。

教育課程論 講義メモ(11月8日)

今日のテーマは、新学習指導要領に基づく授業の例やヒントということです。まず、前回の「ふるさとの4番」関係のことから、説明します。なぜふるさとを扱ったかですが、教育基本法の第2条の五に、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する態度を養うこと」という文言があり、これが、国語や社会や家庭科や音楽などの教科書に反映されているからです。このことを音楽の分野で皆さんにも「主体的に」考えてもらいたいと思いました。その内容をお互いに共有することが「対話的に」なると思います。皆さんの作った「ふるさとの4番」の 全員のものプリントしましたので、それを見てください下さい(下記添付)。それぞれよさがありますが、ゲーム感覚で2つ心打たれるものを選んでください。さらにこれを「深い学び」に結びつけるために、2つの補足をしたいと思います。

一つは、藤原新也が書いている東北の大震災、それから発生した原発事故との関係です。福島の人たちは、ふるさとを失っています。このふるさとを失うことと日本の国土を失いことのどちらが重大なことなのかという問題提起をしています。それを読んでか考えてください。当時神田外語大の学生が作った「ふるさとの4番」も見てください。その関連への言及があります(下記添付参照)。これの起草者の西島さんからは、国家(ネーション)とふるさと(カントリー)は違うというコメントをもらっています(前掲)。

もう一つは、これを教材にして、授業にするには、どうしたらいいのかということです。ふるさとの歌ではないのですが、数え歌をつくる教育実践があるので、それを紹介しておきます。これは、東書教育賞の昨年の小学校の部門で優秀賞を受賞した実践です。(添付参照)。これを例に考えてください。

今日は、「主体的で対話的、深い学び」になると、私が思った授業をyou tubeで見てもらいます。藤原新也「課外授業」(https://www.youtube.com/watch?v=O6xyn4Qv–A)です。その内容に関連するのですが、you tubeを見る前に、嫌いなものの絵を書いてください。その嫌いな理由も書いてください。関連したことを以前ブログに書きそれもコピーして配布しておきます(添付参照,再掲あり)


追記1 学生の書いたリアクションの1部は、下記(再掲)。

追記2 「ふるさとの4番」の投票結果。多い順

32番(10票)、3番、33番(8票)、19番(6票)、2番、14番(5票)、7番、17番、28番(4票)、8番、11番、16番、27番(3票)以下略。(投票数の多い歌詞を以下に掲載する)

32番 独り立ちしたいと 親とケンカした日も 今となれば 懐かしくて 家族恋しふるさと/3番 家を出ると おはよう すれ違えば こんにちは 夕焼け背中に ただいま いつもありがとう ふるさと/33番 ミッキーマウス 夢の国 あとはそうだね なんだろう そうだね なんだっけ そうだね そうだ! あれだ あればょー/19番 過去の町は 消え去り 勤め人は 外人 時の流れは 無愛想に移り変わる ふるさと/2番 歴史古い 街並み 休日は観光客 他に何もないけれど ステキな町 ふるさと/14番 韓流の引き金 新大久保 好きだった飯屋が また閉店 そして今では タピオカ屋が並び 流行に染まる ふるさと/7番 日本で一番古い町 アウトレットもできたよ おじいちゃん おばあちゃん いっぱいいるよ 大好きだな ふるさと/17番 電子レンジ 押すだけ 冷めたごはん あたたかい 電気ポット あったかい ルンバルンバ ふるさと/28番 駅はうるさい 朝から じいちゃん酒を 飲んでる 若者は タバコポイ捨て 私の地元 治安が悪い

授業の記録(敬愛大学教育こども学科1年生、教育課程論)

2019年 教育課程論第6回 (11月1日) 「地域の実態 学校と地域との連携」

1 第4回、第5回のリアクションを読んでの感想 2地域の実態、学校と地域との連携(p21、125)の箇所の要点を書き出しなさい。3学校と地域の協働の4タイプをあげなさい(プリント「地域協働型学校」参照)4あなたにとって、生まれ育った地域やふるさとはどのような場ですか。5唱歌「ふるさと」の4番を作りなさい(新聞記事「ふるさと」続く風景は)参照)6他の人のコメントをもらう

2019年 教育課程論第7回 (11月8日) 「主体的で対話的、深い学び」の例

1 「ふるさとの4番」の人気投票-優秀賞を2つ挙げなさい 2「ふるさと」をテーマにした教科横断的な授業を考えてください(例を参照) 3(現代的話題)「身の丈にあった」(生活や努力)について、どう思いますか(新聞記事参照) 4(写真を撮ったと思い)嫌いなものの絵を書いてください。その嫌いな理由も書いてください。5藤原新也「課外授業」(https://www.youtube.com/watch?v=O6xyn4Qv–A) を見た感想 6他の人のコメントをもらう

「身の丈」について

今日の朝日新聞朝刊(11月6日 朝刊、耕論)には、文部科学大臣の「身の丈」発言をめぐって、3名の研究者(竹内洋、斎藤孝、松岡亮二)がコメントしている。今の大学生はこの「身の丈」について、どのように考えているのであろうか。今週の授業で尋ねてみたい(下記のような議論の整理を提示して)

1 文部科学大臣の「身の丈」発言によって(別の要因もあるが)、来年の大学入試に英語の民間試験を使うことが延期された。「身の丈」にあった生活や努力をすることをどう考えたらよいか。2「身の丈」の逆は、自分の身分や能力を考えずに、上(「立身出世」)を目指すこと。このようなことが可能で、それが強く奨励された時代があった(明治初期、戦後最初、バブル期)。今は低成長期で、「身の丈」にあったキャリアが奨励される時代。また東日本大震災で身の回りのものを大切にしようという意識が生まれている。3 自分の置かれた身分(家庭環境や地域)と自分の能力は別で、前者の「身の丈」奨励は教育の機会均等に反する。後者の「身の丈」推奨はある程度肯定できるが、それが個人の努力にブレーキをかけることになってはならない。4 「身の丈」にあった生活は皆多かれ少なかれ送っている。自分の経済状況に合わせた家に住み、自動車や家電を購入し、旅行に行き、食費や衣料費も教育費も決めている。ただ「1点豪華主義」ということもあり、各自によって何にお金をかけるかはまちまちである。「身の丈」にあった生活は自分や家族が決めることであり、他人や政府から言われることではない。