自虐的な発言に対するリアクションについて

自己卑下というか自虐的というか、自分を低く言うのは、関西の漫才の文化と思っていた。漫才は、最底辺の位置に自分を置いて聴衆の優越感をくすぐるものという解釈を、どこかで読んだ記憶がある。(多田道太郎か加藤秀俊の文章)。ボケ(自虐)に対するツッコミは、それに対する優れたリアクションであり、関西では日常化しているという。

東大出版会の情報誌『UP]に載った文章に中に次のような箇所があり感心した。 「自身についてネガティブなことを言ってしまう人のほとんどは、内心『否定してもらいたい』と考えているはずだ」「自虐的な発言の裏には、結構いろいろな意図が隠されている」「『理想の高さ自慢』さらには『客観性を失わないワタシ自慢』、(そして)『目の付けどころがシャープ自慢』が含まれていたりする」。

自虐的発言に対する人のリアクションは、大変難しいという。それを義務的に否定することも、正面からガチ否定することも失礼にあたり、技術的なこと以上に、普段からの心のもち方に根差したリアクションが要求されるという。(川添愛「たったひとつの冴えたAnswer」(UP, NO567,2020.1)

年賀状について

年賀状に関しては、「高齢になり、来年以降もう失礼します」というお知らせをいただく場合もあり、私自身もそのようにしたいという気持ちがないではない。いろいろお世話になったり親交があったりした人でも、その後は会う機会もなく、年に一度の儀礼的な挨拶(年賀状)が続いてしまう場合も少なくない。年賀状をいただいても、心を鬼にして(?)、返事を書かなければ、そのまま年賀状の行き来が消滅するので、相手も「ほっと」するのではないかと思うこともある。私の場合はうっかり出し忘れたりするので、現実にはそのようなことは起こっているが、意図的にするのにはまだ抵抗がある。

そこで今取っている方法は、なるべく私の方からは年賀状を出さず、年賀状が来たら出すという方法である。これも相手に失礼に当たることは重々承知だが(特に目上の人に対して)、いただいた年賀状に返事を書かないよりはいいように思う。

ひところメールの年賀状が流行った時があったと思う。今はフェイスブックなどで年賀状のやり取りをしているのであろうか(私はやっていないのでわからない)。今回はメールでの年賀状は海外からいただいた1通だけである。もう少しメールの方に移行すれが、手間が省けていいのにと思う。それでも、懐かしい人からの紙の年賀状はうれしくありがたく捨てがたい。

追記 今年は何通かははがきではなくメールで年賀状のお礼(返事)を書いた。その方が近況や相手へのメッセージを詳しく書くことが出来た。おかげで何通かは再度返事をいただくことができ、お互いの近況がわかった。

新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

皆さまにとっても、よい年でありますように。

今年も、よろしくお願いいたします。

                   2020年元旦

                          武内 清

私小説的なブログ

昔私小説というものがあり少し読んだことがある。小説は社会的なことを扱うのが主流の時代に、私小説はあえてどうでもよさそうな身辺の雑事をグダグダと扱い、それがかえって斬新に感じたことがある。現在もこの私小説というものが健在なのかどうか知らない。

教育社会学会や学校社会学研究会でご一緒したことがあり、エスノメソドロジーの優れた研究者である石飛和彦さん(天理大学教授)のブログを読むと、昔の私小説を思い出す。下記に最近のもの(12月12日)から一部転載させていただくが、日常的な些事を独り言のように書きながら、何か味わい深いものがある。わびしい(?)年末に読むのにふさわしい文章のように思う。

<ひとつ年を取りました。それとて別に報告するほどの事でもないし、そんなこと報告されたってどんな顔で読んでいいものか困惑するというのはその通りなんですが、まぁどうせこんなところにぐずぐずとつまらないことを書いていて、気が付いたらこの文章もそれなりの長さになっているわけなのできっと誰もここまで読んでいないであろう、公然とWWWで世界に向けて情報発信されていながらも驚くまいことか誰も読まないであろう、たぶんあとあとの自分だけが興味関心を持ってこの文章のこの部分を読むのであろうから、さすがに自分がかつてひとつ年を取ったという報告を自分で読んで困惑することもないであろうから、つまりいらぬ気づかいをする必要もないというものである。誕生日には鯛を焼くことにしているが今年はちょうど授業がない日で夕方から会議だったので、朝のうちにスーパーを回ってぶじ一匹購入、会議から帰宅して遅くなったけれどぶじ祝うことができたわけである。めでたかった。(www2s.biglobe.ne.jp/~ishitobi/)

追記—-石飛さんが、この書き込みを読んでくれたようで、1月21日のブログにそのことへの言及がある。石飛さんが、文章を書くことを楽しんでいることがわかる。日常的なことの記述とエスノソドロジーが関係していることも伺える。

<私小説、ということばを上げていただいたのはなにかうれしいかんじはする。いっぽう、ここにこうやってときどきぐだぐだと無駄な字を書き連ねているのは、まぁエスノメソドロジーということとはさしあたりかんけいなく、備忘のためとか記録のためとか、まぁしかし概ねは愉しみのために書いていて、私小説といえるかはわからないけれど、小説についての評論とか読んでおもしろそうだと思って、そういう気になってみると文章を書くというのはおもしろいものだ。というのはこれも若いころに、ナボコフの『ヨーロッパ文学講義』『ロシア文学講義』を読んで以来とくに思うのだけれど、まぁ自分の文章がナボコフのように(あるいはプルーストのように、フローベールのように、チェーホフのように、等々…)書けるというわけではなくて、まぁいずれにせよぼそぼそと独り言のように書いてるにせよ、しかし、どうせ自分でしか読まないのだからちょっといろいろ試しながら書いたりするのは存外、楽しいものなのである。>www2s.biglobe.ne.jp/~ishitobi/#new

旅行中読む本

宮古島への旅行中に退屈した時の本として、通勤中に少し読んで面白かった内田樹の新書(『女は何を欲望するか?』角川oneテーマ、2008年)を1冊持っていった。行きの飛行機が3時間と長かったのでページをめくったが、内容が気楽の旅行には合わず、すぐ閉じてしまった( Ⅱの「フェミニズム映画論」などは、鋭いフェミニズム批判で、上野千鶴子などがどのように反論しているのか気になるところであるが)。

宮古島に着いてから、夕食をとった店の隣に比較的大きな書店があったので、そこで何か適当な本はないかと探した。結局購入したのは村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短編』(新潮文庫)である。集録されている小説のほとんどは以前に読んだものだが、リラックスした旅行中に読むにはぴったりくるのは村上春樹の本であると感じた。時々、その本を開き村上春樹の世界に浸り、宮古島の景色を楽しむ快適な旅行となった。