インディアカについて

世の中には知らないことが多い。今日の午前中テニスの打ち方教室で一緒だった人が、午後はインディアカの練習があると言って、その羽を見せてくれた。バトミントンの羽の数倍の大きさで、ラケットを使わず手で打つという。こんなスポーツあるのははじめて知った。ネットで少し調べてみた。www.japan-indiaca.com/aboutindiaca/

<「インディアカ」は羽根の付いた特殊なボール(「インディアカボール」と呼びます。)を手で打ち合う、バレーボールタイプのスポーツです。インディアカボールは、ラケットなどを用いずに直接手で打ち合うことも大きな特徴です。ボールに付いている羽根は、小さいボールの滞空時間を長引かせることと、ボールをねらった方向にまっすぐにとばすことができる両面の作用があります。直接手で打つために、よりコントロールしやすく扱いやすいという特長があります。交流・楽しみのゲームから高度な競技にいたるまで、多様な楽しみ方手との身体接触がなく、心身にゆとりが生まれ、比較的安全で男女混合にも無理がないスポーツです。手で打ち合う動作は、全身運動であり、一汗かく運動です。スポーツを楽しみながら身体を鍛える効果も十分期待できるスポーツです。リズミカルな動き、全身のバランス、すばやい反応が競技や練習を通して養われ、若々しい身体の動きが約束されるスポーツです。インディアカは、旧西ドイツで考案されたスポーツです。スポーツ教師のKarlhansKrohnが1936年、ブラジルの伝統的なゲーム「ペテカ(Peteca)」をドイツに持ち帰り、「インディアン」と「ペテカ」の合成語としてインディアカが生まれました。>

社会学研究者の嗜好

社会学は社会の主流に対して批判的な見方をとり弱者の味方になり、権力者や上流階層を批判する傾向がある。しかし一方で、上流階層の育ちの良さにコンプレックスと羨望を抱いているのではないか。若い社会学研究者の書いた「率直な」コラムを読んで、そのように感じた。

<私は、ある親族の言葉を借りるなら「田舎の土地成り金の家」で生まれた。東京に進学し、自分がある種の品性に欠けることは痛いほど分かった。私が知り合った人々は、性により役割を隔てず、差別的な言葉を使わず、多少不便を被っても社会の歪(ゆが)みに苦しむ人々の力になろうとした。そんな「リベラル」な人に出会うたびに、利便性を追い求め贅沢(ぜいたく)を好む、利己的な自分の成り金趣味、さらに言えば育ちの悪さを痛感させられた。(中略)関西に移り、都内に出張した際はホテルに泊まることも増えた。ホテルは、日常をすべて非日常に変え、人々を徹底的に消費者として過ごさせる。とりわけ高級と言われるホテルほどその性格は強い。(中略) 特によく過ごす四ツ谷のホテルは、スタイリッシュな外資系ホテルなどとは異なり、豪華ではあるもののどこかレトロな雰囲気があって田舎者の自分にも親しみやすい。(中略)客室係の方との世間話や部屋に置かれた小さな贈り物は、私の虚(むな)しさや慌ただしさを一瞬和らげ、チェックアウトまでの間、心に静けさをくれた。(富永京子 時には「政治」を離れて、朝日新聞 2020年2月1日 夕刊より一部転載)

コロナウィルス禍

最近テレビをつけるとコロナウィルスの話題ばかりで、不安な気持ちにさせられる。

1 このような「危機的な状況」の中では、人々の潜在意識が表に現れてくる。 武漢や中国からの帰国者や旅行者に対する各国の扱いにそれが出ている。日本では比較的丁重な扱いだが、欧米諸国では武漢人ばかりでなく、アジア人への差別が表面化している(イタリアの音楽院のアジア人学生の出席拒否など)

2 千葉県の教育委員会では、武漢からの帰国者が宿泊している勝浦のホテルや鴨川の病院関係者の家族へのいじめや差別がないように通達を出したのは、適切な対応だと思う(かって、福島からの移住者にいじめがあった)。

3  コロナウィルスをめぐっての中国人同士のけんかの報道も多いが、武漢の人たちが、お互いに助け合っている(病院のスタッフへの無料のホテル宿泊やお弁当の提供や送り迎えのボランティア)というテレビの報道もあり、心温まるものもある。このような助け合いを多くして、この難局を乗り切ってほしい。

4 2003年のSARSの時は、台湾で次々店が閉鎖され、このままでは台湾はなくなってしまうのではないかと思われたほどとのことだが、それから立ち直っている。中国もアジア諸国もこれからのさらなる困難も覚悟し、冷静に対処し、乗り切ってほしい。

発達段階と能力・知力の関係ついて

(これは発達心理学の分野のことだと思うが)人の年齢とものを理解する能力や知力との関係について、正しく認識されているのであろうか。それは天才肌の人のことではなくて、平均的な人の発達段階(年齢)に応じた能力や知力に関してである。学習指導要領を見ると、各教科の目標や内容が、小学校で言えば〔第1学年及び第2学年〕〔第3学年及び第4学年〕〔第5学年及び第6学年〕と3段階で区別され、発達段階に応じて具体的に書かれている。それはもっともらしく書かれているが、学習指導要領に書かれていることは、現実の子どもの能力や知力に対応したものであろうか。心理学者や教育学者さらには現場教師の意見を是非聞きたいものである。

そのようなことを感じたのは、今年のセンター入試の国語の問題を見てのことである。センター入試を今58万人受けているということは、同一年齢の半数以上が受ける試験で、基礎的な内容になっているはずである。先に書いた原民喜の文章も決して平易な内容ではなかったが、別問(第1問)で出された河野哲也『境界の現象学』からの「レジリエンス」に関する文章は、わかりやすい言葉で書かれているが、その内容は極めて高度で、今の人文科学や社会科学ひいては自然科学の最先端のことが論じられているように思う。高校3年生がこの内容を理解して大学に入学しているとするならば、今までの(少なくても私の)大学1年生の能力・知力に対する認識を改めなければならないと感じた。

「(レジリエンスとは、)環境の変化に対して動的に応じていく適応能力のことである」「脆弱性とは、変化や刺激に対する敏感さを意味しており、環境の不規則な変化や悪化にいち早く気づける」「レジリエンスは、均衡状態に到達するための性質ではなく、発達成長する動的過程を促進するための性質である」「レジリエンスは、環境の変化に対して自らを変化させて対応する柔軟性にきわめて近い性能」「(レジリエンスが活かせる環境を構築するためには)子どもの潜在性に着目して、職場や環境が変わっても続けられる仕事につながるような能力を開発すべきである」「(レジリエンスの立場から)ケアする者がなすべきは、さまざまに変化する環境に対応しながら自分のニーズを満たせる力を獲得してもらうように、本人を支援することである」

以上の指摘は、学会でも議論されていい内容であると感じた。これからの大学入試の改革の審議会のメンバーの一人が、「センター試験を変えなければならない大きな理由は、今の学生の学力が下がっていて、講義ノートも取れない学生が多くなったからだ」とテレビで話していたが、この認識と上記のセンター試験の問題を出した教員の認識の乖離は甚だしい。この認識の違いについて、いろいろな大学教員の意見を聞いてみたい。

原民喜のこと(その2)

今日(21日)の朝日新聞の『天声人語』は、センター試験に出た原民喜の文章について取り上げていた。

「受験生は眼光紙背に徹するように読み、作者の「言いたいこと」を熟慮せねばならない」「普段の読書とは段違いの集中力で臨むのが入試である。美しい文章、深みのある文章に出会った時の印象もそれだけ強くなる」「描かれたのは一人の青年だが、背後にある無数の青年の命について考えさせられる」という指摘に共感する。

入学試験の文章 :普段の読書とは段違いの集中力で臨むのが入試である。美しい文章、深みのある文章に出会った時の印象もそれだけ強くなる▼そんな経験はもちろん受験生でなくても味わえる。お手元におとといの朝刊があれば、センター試験の国語にある原民喜(たみき)の「翳(かげ)」をぜひお読みいただきたい。のんびりした日常が、日中戦争でじわじわと変わっていく様子がそこにある▼作者の家に出入りしていた魚屋の青年は人なつっこく、周りに愛されていた。そんな彼が軍服を着て満州に渡り死に至る病を得てしまう。「善良なだけに過重な仕事を押しつけられ」たのではないかと作者は思いを巡らせる。描かれたのは一人の青年だが、背後にある無数の青年の命について考えさせられる。(朝日新聞 2020年1月21日朝刊「天声人語」より1部転載)