遠隔授業の学生のコメント例

教室での授業と遠隔の授業ではどちらがいいかと言われたら、もちろん前者であろうが、後者の遠隔での授業しかできない現状では、遠隔で効率を上げるしかない。ただ教室での授業より遠隔の方が、学生が配布資料をじっくり読み、時間をかけて理解しコメントを書けるという利点はあるかもしれない。今回の私の敬愛大学での遠隔授業で学生から資料をしっかり読んだことがわかるコメント(リアクション)が返ってきている。さらに自分の意見も書き込まれている。その例をしておきたい。

友人の教育学研究者のM氏より日頃から、日本の社会は年金制度も含め、専業主婦の家族を前提にした制度設計になっており、現実の共働き家族や一人親家族の増加に対応できていない、という話を聞かされてきた。そのことと同じことを、敬愛大学の1年生の遠隔授業のコメントに書かれていて、その一致と、今の学生の洞察力に感心した。内容は次のようなことである。

敬愛の1年生の「教育原論」の遠隔遠隔の授業で、1回ほど「親子関係」というテーマを扱った。その中では①河合隼雄の母親原理・父親原理の説明、②子育ての日米比較(ベフ・ハルミ(『日本』)、③母―子関係の日米比較(江藤淳『成熟と喪失―母の崩壊』)と並んで、④現代の母娘関係の新聞記事(藤原新也「なぜ殺し合う、母と娘」)2006年5月22日、朝日新聞朝刊)を、WEBで配信し、親子関係に関してどのように思うのかを、WEBで学生に意見を求めた(添付参照)。

送られてきたコメントを読むと、教室で資料を配布する以上に、熱心に資料を読んでくる学生は多いと感じる。今の学生は、素直に提供された資料を読んで、その内容を受け入れ、自分のことも少し関連づけて書いてくるのが通常ある(下記に例を示す).またその中の1つに、藤原新也の文章の内容には異論を唱え、時代は変わり親子関係は変わっているという鋭いコメントも寄せた学生もいた。

<今回の講義資料を読んで、親と子どもの適切な距離感とは何か改めて考えることができた。まず、河合隼雄さんの記事を読んで、父母の役割の違いを知った。今まで考えたことはなかったが、ドラマや映画そして私の父母も原理に当てはまっていると感じた。母性の「包含する」機能によって示される原理と父性の「切断する」機能により特性が示される原理とのバランスがとても大切であると思った。日本だけでなくアメリカの母子関係・子育ての様子に注目した記事を読み、今までとは違う考え方があると知った。今まで私は、子どもに愛情を注ぎ、大切に育てることだけが正しい子育ての方法だと捉えていた。アメリカの子育ての方法は、子どもをあえて1人にして寝かせたり、まったく他人のベビーシッターと留守番をさせたりとストレスの生じやすい状態を作り出すが、子育てを子どもが成人するまでの長い目で見た時、子どもにとって日本よりも良い子育てが行われているようにも感じた。子どもが育つ上で母親の愛情は不可欠であるが、その愛情が子どもの成長を止めたり、子どもが自立するときの足枷になってはいけないと思った。母親の過剰な娘への執着が親子関係の崩壊に繋がることもあると知り、子育ては難しいことだと感じたが、母親は自分の子どもを1番に支え、生涯味方であり、子供の成長を見守る人であってほしいと思った。実際に子育てをしてみないとわからないことばかりだと思うが、これからも様々な記事を読んだりしていく中で、自分であったらどうするか、常に自分を当事者として考え、子育て、親子関係の在り方について研究していきたいと思う。>

<私が資料を読んで考えたことは、親子関係とは長い人生の中で生きていくために重要な役割を果たすものだということです。母親と父親、両方の存在が子供にとって大切でありその存在はそれに代わる人やどちらか一人が役割を持つことでも可能であるということがわかりました。母親とは、子供を産み育て「抱合」するものですが、別の面でみると子供を呑み込んでしまい死にまで至らしめる面も持っています。一方父親は子供を能力によって「切断」し鍛えるものとされています。現代の社会では掟を守り困難に立ち向かうために、子供を鍛える父親の立場も重要になると考えました。ただ、それが強すぎるあまり、子供を破壊してしまう面もあります。次に、日本とアメリカは育児方法の違いで、子供のパーソナリティーが大きく変わっています。日本の親は子供を大切に育て上げていて、親に対する感情を良いものにしているのに対して、アメリカの親は愛を注ぎながらも時には厳しく突き放し子供に二律背反的な感情を与えています。どちらもよいものであるように見えますが、否定的な面からみると日本は「保護過剰」、アメリカは「拒否」ととらえることができます。「保護過剰」では子供はいつまでたっても大人になれず、母親は子供の成熟を恨みます。「保護過剰」が次の代まで引き継がれ、それが原因で現代では親子関係に歪が生まれ、親を殺そうとする子供がいることを知り驚きました。親の愛の欠損から自己愛ゆえに子供への過干渉につながり、親の期待を生きることに耐えきれなくなった子供が起こす事件はとても悲しく、現代の日本の在り方がこのままではいけないと感じました。大変な道のりですが、現代の社会を生きるためには親子関係を少しずつ変えていくことが重要だと考えました。>

<今回の資料を読んで、何も考えずに当たり前のように関わってきた親との関係性は当たり前の事ではなく、その関係においてたくさんの人が悩んでいるという事実にとても驚いた。日本にはそのような親子関係に悩む子や、不登校・対人恐怖症の子など人との関わりにおいて傷を負っている人が多いのだなと感じた。私はそれらの多くがやっぱり幼児期からの育ち方に理由があると思うし、アメリカと日本の育児方法を比べた例をとってみるとより顕著に感じた。日本人は一般的な考え方として、母親に強い肯定的な感情を抱き、母親とはいつも自分の味方であってくれるものとして考えている。しかし、アメリカは肯定的・否定的双方の感情を得ているので、母親に対して二律背反的な感情を抱き、母親に対して適度な距離感で自立した考えを持つことができている。私はその違いから、日本人は親子という関係性に依存しすぎていると感じた。また、親から子への愛情も過度すぎるものだと思う。でもそれは日本人の親にとって当たり前の愛情表現であり、正しい子どもとの接し方・育て方だとされる。たしかに私自身も、辛い時や寂しい時は親に手を差し伸べて欲しいと思うし、嬉しかった時や楽しかった時は親にいち早く教えてあげたいという気持ちになる。でもそれが過度になってしまうと、これから先ひとりで生きていかなければならない場面で耐えきれなくなったり、問題を自分自身で解決できない人間になってしまったりすると思う。だからこそ私は、親子関係のあり方について優しく包み込んであげることが全てでは無いことを理解し、時には厳しい一言で子どもに喝を入れたり、時には何も言わず黙って見守ってあげたりして接していくべきだと思った。そして私は、愛情あるからこその適度な距離感こそが最も大変で最も大切な親子関係のあり方だと思った。>(通常のコメント例)

<(藤原新也の書いている内容についてー) 私はこの文章を読んでこのような事例は少し前の時代のものだと思いました。母親の子供に対する考え方、接し方についてそう思いました。私の思う前時代の親子関係というのは過保護やそれこそ密着しているようなものだと思いますが、今は夫婦共働き世帯やシングルマザー・ファザーの家庭が増え、逆に子供と接する時間を確保することが困難だと思います。そのため資料のような事件は現在では珍しく、逆に孤独な子供の問題が多く取り上げられていると思いました。>

新型コロナ危機後の教育

私の住む千葉県でも小中高校はまだ休校が続いている。近くの小学校では、昨日児童の久しぶりの登校日だったようだが、同じクラスの児童でも登校時間をずらして、少人数で担任の先生からの話しを聞いたようだ。大学はどこも遠隔教育が続いていることと思う。

3週間くらい前に「新型コロナ危機の後の教育」という題で、短いコラムの原稿を出した。確か昨日(12日)に発行されていると思うが、日に日に状況が変わる中で、日日(時代)遅れの内容になっていなければいいのだが。

〇 重い病気になった時は、自分にとって何が重要なことなのかに思いをめぐらす。そのような時こそ、本当に大切なものに気が付く。しかし、病気が治り死の恐怖が去ると、危機的状況の時に考えたことは忘れ、もとの便利や功利を求める生活に戻ってしまう。/〇いま新型コロナウイルスの世界的な蔓延で、私たちの日常生活は一変し、重い病気にかかったような状態にある。そのような時こそ、何が大切なのか・何が重要なのかを考えたい。/〇新型コロナウイルスの感染の拡大は、社会の諸分野に影響を及ぼしている。教育の世界への影響も大きい。とりわけ長期にわたり学校が休校になったことは、学校中心の生活を送っていた子どもたちの生活を一変させた。その影響は計り知れない。休校になり授業、遊び時間、部活動、交友関係もなくなり、子どもたちの学習や楽しみが奪われた。そして学びの家庭間格差、社会的格差が拡大している。弱者に皺寄せがいっている。これまで学校が担ってきた教育機能の重要性が、平等性も含めて改めて認識される。コロナ後は、この間に滞った教育機能の補修・回復や格差の是正がまず早急になされなければならない。/〇一方で、自明であった学校教育の意義も問われている。効率優先の一斉授業、興味のわかない教科の学習、生きる力にならない知識、教師のクラスメイトへの叱責を聞く時間、退屈な学校行事、無意味な校則など、無くなってみるとスッキリすることが多い。これまでの学校教育のあり方の見直しが必要である。/〇休校中の家庭での自由な学習、親子関係の親密化、ウエブ学習、地域での遊びの回復など、これまでの学校教育とは違った自由な学習や生活に、本来の興味や活動に目覚めた子どもたちも多いことであろう。不登校やホームスクーリングも見直されていい。/〇黒板とチョークを使っての学校での授業に替わり、家庭での遠隔学習を経験した子どもも多い。デジタルネイティブの今の子どもにとって、デジタルで学ぶことの楽しさは増している。コロナ危機後の教育では、ウエブ学習が家庭でも学校でも盛んになることは必然である。しかし、教育のデジタル化には多くの課題がある。子どもの集中力や深い学びには、ウエブ学習より伝統的な教育(紙と黒板)が適合的という報告もある(デジタル先進県の全国学力テストの得点は高くない等)。/〇コロナ危機は、経済や政治の分野でも大きな変化をもたらし、教育にも跳ね返ってくる。経済的な不況による教育費の削減、危機管理を名目にした超管理社会の到来など。これからは教育力の維持、教育的格差の是正、民主主義の維持などがなされなければならない。

バラの季節

これからは、バラの花が綺麗な季節である。例年だと、自宅から車で20分ほどの八千代市の「京成バラ園」にバラの花を見に行くのであるが、今年はコロナ禍の為にバラ園が休園になっている。それでも、バラ園の外でバラを販売しているガーデンセンターが平日は開いているとのことで、そこのバラを見に出かけた。

ガーデンセンターでたくさんの種類のバラの苗木や鉢が販売されていた。ほとんどのバラが咲き始め、見ているとほしくなるものばかりだが、高価だし、手入れが大変なので、そこはぐっとこらえて、今回は見学だけにした(昨年は一鉢買っているが、手入れがよくなかったのか、家でのそのバラの咲きが芳しくない)。例年は平日でも大変混雑するところであるが、今日は人が少なく、しかも園の一部に無料で入れて、そこからがバラ園の様子を少し見ることができた。まだ満開まで少し日数がかかるようだ。満開時には、開園してほしいものだ。やはりバラは花の女王という気品や貫禄がある。

隣の家のバラも今は満開。毎朝観賞させてもらっている。

社会の定年と個人の元気さ

会社や学校など社会の組織には定年というものがある。今高齢化がすすみ,社会の組織の定年が延長されているとはいえ、60歳定年の企業も多いであろうし、公立の学校の教員の定年も基本60歳である。大学教員は勤めはじめた年齢が遅いので、65歳あるいは70歳定年のところが多い。社会で定められた定年と人の元気さや健康には個人差あるので、その間でギャップを感じること人も少なくない。

ただ、社会的に定められた定年に、人の意識も合せてしまう傾向もある。大学教員の場合、長年勤めた大学を定年で辞めることになると、あなたの研究能力と教育能力はここまでと社会的に宣告されたようなもので、「そうなのかな」といろいろな意欲も急速に萎んでいく。「大学教員の定年は不当」と、昔同僚だった先生が送別会の席で怒ったようにあいさつした時は少し驚いたが、今考えるとまともな意見のようにも思える。

そのような中で、フリーで活躍している人は、社会や組織の定年などの惑わされることなく、元気である。私と同世代の写真家の藤原新也は、今も写真を撮って個展を開いているし、本も出し、会員制のサイトCat Walkを開設し、ラジオの放送もはじめ、社会的な発言も続けて、世に大きな影響を与えている。昨日(5月9日)の朝日新聞夕刊にも、「コロナ禍 人々は変われますか」というインタビューに答え、人々を励ましている。

<飽食時代の欲望全開の自分を見つめ直す禁欲生活に入っているという見方もできる。人間関係で言えば、これだけ人恋しさを蓄えられる状況はないわけでしょ」「今ほど、人とのつながりや人の温かみのありがたさを実感するときはないだろう。被害意識も生まれやすいが、人には悪のやすりによって磨かれ、育てられる強さもある。気づかないまま自分の中でさびついていたものがあるじゃない」「コロナは人の味覚を奪うが、これからは食べ物の味を本当に味わうことができるかもしれないし、100%の愛情のうち下手したら10%くらいしか使っていなかったのを、コロナ明けからは70%くらい使って他者に接することができるようになるかもしれない。そうなったら人間の勝ちだ。それがニューノーマルになってほしい」(藤原新也 朝日新聞より1部転載)

(公開の shinya talkは,  www.fujiwarashinya.com )

ブログの一部を活字にする

以前にも書いたが、このブログにはカウンターも付いていないし、「いいね」もない。またコメントも受け付けていない。私からの一方的なもので、私の日記状態である。内田樹のブログはカウンターがついていてそのアクセス数は58,670,409回(本日まで)、藤原新也の会員制のTalkは1200人ほどだが、その一部は公開されると数万人の人が読む時があるという。それらと大違いで、私のものを読んでいる人は数人であろう。以前は同世代の水沼文平さんがよく読んでくれてコメントをメールで寄せてくれたが、その水沼さんが亡くなり、コメントを寄せてくれる人もほとんどいなくなった。人の反応を気にせず何でも書けるという利点はあるが、時々「たまには読んでほしいな、この意見に対してどう思うのだろう」と感じることもある。

そこで、ブログに書いたことを、少しまとめて活字にすることがある。最初は、『学生文化・生徒文化の社会学』(ハーベスト社、2014年)の第Ⅳ部コラムに2012~14年のものの一部を掲載した。2度目は、「敬愛大学国際研究第30号」(2017年)にその後のブログの一部を載せた。そして今回3度目で、「敬愛大学国際研究第33号」(2020年3月)に「教育知識の社会学―深い学びに向けて」と題して2017~20年の一部を掲載した。

本や紀要に載せたからといって読んでくれる人がそれほど増えるわけではない(大学の紀要を読む人は2~3人と言われている)が、ネットに疎遠な人や、私から送られ義理で仕方なく少し目を通す人もいるだろう。また大学の紀要に載せれば、学生に配布されるという利点もある(その為、今回も敬愛の学生向けに、過去の授業の記録などを中心に収録した)。学生諸君、是非読んでほしい。敬愛大学の学生へのエールも書いた。。