「教育思想」に関する遠隔授業(第6回)

私が敬愛大学で担当している「教育原論」の授業で、「教育思想」のことを扱うとき、私はこの分野に知識がない為、いつも苦労する。ただ、過去の教育思想家の教育論を、学生に興味をもって聞かせるのは教育哲学の専門家でも、難しいのではないか。(専門過ぎても学生の興味を惹かない)。ましてやその分野の素人が教科書的な知識を提供しても面白いはずはない。

そこで  「教育原論」第6回は、WEBで配信の「講義ノート」(添付参照)で、教育思想の意義を簡単に説明し、講義資料で、敬愛大学の中山幸夫教授の西洋の教育思想家7人の的確な紹介の文章と、他のいくつかの説明を配信し(添付参照)、後はインターネットでもいくらでも調べられるので調べて、「誰か一人ないし二人の教育思想家を取り上げ、その教育思想の特質を説明しなさい」という課題を出した。

学生達は、資料を読んで、興味をもった教育思想家に関して、資料とインターネットで調べ、なかなかいい解答(リアクション)を寄せてくれた(添付参照)。多少のコピペ(転記、転写)はあるにしろ、自分の興味と一致した部分を書き出し(抜き出し)、現代の教育問題と結び付け、教育思想を考えたことが、リアクションの内容からわかる(一部以下に転載。講義ノート、講義資料は添付参照)。「今の教育の考え方が昔の教育者の思想に起源があることを知った。、教育思想をもっと学びたい」という趣旨の学生からのリアクションがいくつもあり、この方法がある程度成功したことを感じる(以下、学生のコメントの一例)

<私は以前デューイの「学校と社会」を読んだのとがある。そこでデューイの教育観に感銘を受けたのを今でも覚えている。そして、高校時代に何度も目にした『ルソー』の考え方がデューイに似ていることに今回の資料を読んで気がつき、興味を持った。ルソーは、当時のフランスの絶対王政の中で「人間は生まれながらにして自由である」と説き、現実の人々の偏見や権威や慣習などによって変質される前の自然のままの人間を意味する「自然人」を作ろうと考えた。彼は、子どもには自ら成長発達しようとする内在的な能力が備わっていると説き、子どもを大人の世界から解放しその子どもの生得的な本性の考察により教育論を展開した。ルソーは、何よりも子どもの感覚や自発性を重んじ、子どもの活動意欲を喚起し、さらにそれを発展させようと主張した。また、私はルソーの「熱心な教師たちよ、単純であれ、慎重であれ、ひかえめであれ」という言葉に心を打たれた。親や教師は、子供を愛しているからと言って過度に援助を行うと、かえってそれは成長の邪魔になる場合が多くある。これは私が実際に妹とかかわる際や教師体験、そして塾講師のアルバイトでも痛感した。同時に、子どもを見守ることがどれだけ難しいことかに気がついた。だが、不安定な道を走り回って転んだ時に、初めて子どもはそのような道を走るのは危ないと気づくのである。大人が危険を予知し、走る前に止めてしまうと子どもは学べないのである。そして、ルソーのように子どもを中心とした教育を展開したデューイ。彼は、子どもが中心となり、その周りに教育についての装置が組織されていると述べ、学校を小さな共同社会と捉え、子どもにとって生活と密接に結合し、生活を通して現実社会を学ぶ場所だと考えた。デューイ・スクールでの実験授業は協力して問題解決を目指し頭も体も使い子どもの学習意欲を奮い立たせ、おまけにそれは将来の役に立つという今の日本の座学では想像のできないものであろう。私は、子供たちが大人に指図されずに、心から意欲的に学ぶ顔をいつか見てみたいと思う。すべてをデューイのような授業展開にすることは現実的ではないが、デューイやルソーの教育観を頭に入れておくだけで、将来自分が教壇に立った時にすべきことが見えてくるのではないかと思う。彼らの考え方をもっと知りたいと感じた。> 

ヨーロッパ映画のお薦め

今韓国ドラマばかりが話題になっているが、もともと映画やドラマやドキュメンタリーは欧米が発祥の地で、そちらの方が優れたものがあるのかもしれない。ヨーロッパの映画に詳しい知人より、下記の映画を薦められた。ネットフリクスで観ることができるという。これから観賞する

第1位 「ラインオブデューティ」

BBC制作の警察ものです。東野圭吾には書けないという感じです。骨太にて繊細。人間が丁寧に描かれています。https://en.wikipedia.org/wiki/Line_of_Duty

第2位 「ブリッジ」

スゥエーデン、デンマークの合作ミステリドラマです。これが好きすぎて、舞台のマルメ(スゥエーデン)に行ったほどです。https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_BRIDGE/ブリッジ

第3位 「flea bag」

BBC制作のドラマです。中産階級の若い女性の日常や恋愛などです。高い評価を得ているようです。https://ja.wikipedia.org/wiki/Fleabag_

番外 ザ・ウインザーズ

イギリスの民間放送チャンネル4制作。王室を笑いものにしています。容赦がないです。日本では考えられません。https://en.wikipedia.org/wiki/The_Windsors

久しぶりに「テニス教室」に参加する

コロナの自粛が終わり私の住む千葉市でも、幼稚園や学校は先週からほぼ通常の授業に戻りつつある。児童・生徒たちは通常の時間に登校し、授業を受け、給食も食べ、帰宅する。塾やお稽古も再開し始めている。(大学は相変わらず遠隔授業のままであるが。今年の日本教育社会学会の大会は、大学での開催ではなく、WEBでの開催になった。)公共の施設でも使えるようになっているところが多い。

高齢者にとってコロナ自粛・その解禁はどのような変化を生活に及ぼしたのであろうか。もともと多くの高齢者は自宅で過ごすことが多かったので、コロナ禍の影響はもっとも少なかったのではないか。

私が毎週火曜日11時から2時間参加している「テニス打ち方教室」(千葉市長沼原勤労市民プラザ)がある。参加者はほとんど平日の昼間に暇な高齢者ばかりだが(少し年齢の若い女性もいる)、2か月の休止の後、再開された。それに、私も久々に参加した。いつもメンバーが集まり、コーチの指導のもと、いくつかの打ち方の練習(ボレーとスマッシュ)と練習試合をしだ。久々のテニスは爽快感があり、楽しかった。私も含め高齢者は、以前と何も変わらず、淡々と日常を過ごした様子が伺われた。

「梨泰院クラス」ロス(その5)

今日(6月16日)の朝日新聞も韓流ドラマの再ブームを牽引している「梨泰院クラス」について言及していた(その部分を転載)

<韓流ドラマ再ブーム、世界を相手に 「愛の不時着」・「梨泰院クラス」が牽引

 韓流ドラマブームが再燃している。牽引(けんいん)するのは、ネットフリックスで配信中の「愛の不時着」と「梨泰院(イテウォン)クラス」。日本だけでなく、中東や東南アジアでも大人気だ。なぜこんなに勢いがあるのか。 ■信念ある女性/恋愛+社会問題 政府支援、リメイクしやすさも戦略 「自粛生活の唯一の彩り」「もう見るのは5回目」。ツイッターには連日、両作品への賛辞が並ぶ。あの黒柳徹子さんも「全話一気に見ました」とインスタグラムでコメントした。 「愛の不時着」は、韓国の財閥令嬢がパラグライダーの事故で北朝鮮に不時着。出会った北朝鮮軍の将校と恋に落ちる物語だ。「財閥」「親との確執」など韓流ドラマならではの設定がちりばめられ、韓流ブームの先駆けとなったドラマ「冬のソナタ」(2002年)の出演者も登場。王道の恋愛ストーリーを笑いとペーソスでもり立てる。 「梨泰院クラス」は、ある親子に人生を狂わせられた青年が、仲間と一緒に巨大飲食店チェーンに挑む。人気ウェブ漫画が原作のテンポの良い復讐(ふくしゅう)劇だ。 両作品とも、韓国で放送された後、ネットフリックスで世界配信されると、瞬く間に人気ランキングの上位に入り、トップ10以内を保つ。中東や東南アジアのメディアでも次々と紹介され、ブームになっている。 人気を支えるのは、働く世代からの共感だ。いずれの作品も、登場する女性に上昇志向や愛する男を守る強さがあり、自分の生き方に信念を持っている。決して善人とは言えないずるさも描かれる。男たちは、そうしたヒロインの自主性を大切にし、彼女らの生き方が誰かに汚されないように守り抜く。 (以下略)>

人との会うことの「暴力性」

今でも見る一番怖い夢は、授業の準備、話す内容の準備ができていないのに授業の時間が来てしまい、困惑する夢である。途中で目が覚めると、ほっとする。人前で話すのが向いていないのかもしれない。

今、コロナ自粛で、大学の授業が遠隔授業になり、教壇に立つこともなくなり、その点ではとても楽になった。自分にとって、教壇に立つことがこれほど苦痛のことだったのかと自覚する日々である。とりわけ多人数の講義では、いろいろな学生がいて、どんな話をしても退屈する学生はいて、私語はあるし、それを宥め、90分の授業を無事終えるのに多くのエネルギーを使う(うまく行った時の達成感はあるのだが)。少人数のゼミは少し楽だが、それはそれで別の神経を使う。ゼミメンバーが皆仲よくしているのか、コンパでもやった方がいいのかなど。

精神科医の斎藤環氏が、人に「会うことは暴力」と言っている記事(朝日新聞6月14日、デジタル版)を読んだ。人に会ったり、人前で話すことは「暴力」で、かなり無理をしているのだということである。自然の状態は、そんなに人に会ったり、人前で話したりせず、一人(あるいはせいぜい身近な家族と)好きなことをして、人と連絡が必要な時は、メールで伝えればいい。「引きこもりは」は異常なのではなく正常で、無理して人に会ったり、人前で話したりすることの方が異常なことなのかもしれない。外で働く旦那より、終わりのない家事、育児に忙殺される専業主義の方がどれだけ大変なことなのかと、ジェンダー論では言われるが、人に会うことの暴力の少ない専業主婦の方が、外で神経をすり減らし人と会う旦那より楽でまた人の自然状態に近いのかもしれない。こんなことを感じるコロナ自粛の日々である。

 <(前略)むしろ非生産的で、不要不急の、あまり意味のないことをすることで、私たち自身が本来持っていた、時間の感覚を取り戻しましょうと。私はそういったメッセージを、ウェブサービス「note」で公開し、反響の大きさに驚きました。(中略) 緊急事態宣言解除後に再び元の世界に戻すべきなのか、という議論があります。在宅ワークをしてみたら、できるじゃないかと。無理に満員電車に揺られて通勤し、行き先の職場で疲弊して、ハラスメントにあってまで働くことはないと。そんな声が上がる一方で、「やはり会わなければダメだ」という声もある。議論は今も続いていて、なかなか糸口が見えない。 なぜかと言えば「人に会う」ということは、ある種の「暴力」だからなのだと思います。どんなにやさしい人同士、気を使いあっていたとしても、相手の境界を犯す行為なので、その意味では、会うことは暴力です。それでもなぜ、人と人が会うのかと言えば、会った方が話が早いから。(中略)この暴力の存在を、私はコロナ禍の中であらためて自覚しました。私が日々している会議、授業、診察。それらもまた、暴力なのだなと。私自身、そこに入る前に緊張したり、気が重くなったりする。でも、終わってしまうと、やってよかったという気持ちになる。(中略)自分が外の世界で経験してきたことの暴力性に、外出自粛下で距離を置いたことで、気付いてしまった。それに気付くほどに、暴力のない世界に没入したくなる。そういった気持ちは非常によくわかる気がします。(中略)  「会うことは暴力だ、だからダメだ」とも言えない。「すべては暴力なのだから、我慢するべきだ」とも言えない。暴力に対する耐性は人それぞれ違います。予想を超えた規模で、実は自分自身は暴力に耐えられないんだ、と気付いた人たちもいたわけです。そういう人たちが在宅に切り替えれば、欠勤もなくなり、効率もアップする。そういうことが実際に起こっている。)(中略) 大勢がひきこもったことで、ひきこもりの人に共感しやすい状態が生まれました。>(斎藤環、コロナで誰もが気付いた「会うことは暴力」(6月14日)精神科専門医・筑波大学教授)