歴史には疎い私であるが、歴史を知ることはこれからの未来を考える上でも重要なことは認識している。
歴史的事実を、今生きている人が語り、それを記録に残すことも重要であろう。
ここに、戦時中の生徒の勤労奉仕や勤労動員 について、当事者が語りそれが草稿になったものがある。(公益財団法人中央教育研究所【中研ニュース】24年4月19日発行) 近〃、印刷物でも出るものと思われるが、その一部(最初と最後)を紹介させていただく。語っているのは、東大名誉教授の水野丈夫先生
戦時体制下における横浜二中 水野丈夫
翠嵐100年の歴史を顧みるとき、二中の占める時代は33年間であって、ちょうどその三分の一に相当する。そしてその後半にはとりわけ悲惨な戦争があり、国家による総力戦体制の中に「中等教育」も巻き込まれていく。本稿では、そのプロセスに注目しつつ、二中生がおかれた状況を記録する。
(中略)
以上、本稿は、戦争の不条理と、若者の自由といのちを踏みにじった国家権力の愚かさと恐ろしさを記述するとともに、戦時体制下における二中生の健闘ぶりを概観した。本稿に記載しなかった勤労奉仕や勤労動員がこのほかにもまだ多数ある。飢えた、暗い時代で、空襲があって、“いのち”と向き合う日々が続いた。家や家族を失った生徒も多い。子どもや夫や父親を失った家族の悲しみは永遠に消えることがない。そして、海に沈み、大空に散った先輩がたの遺骨は永遠に戻ってはこない。私たち一人ひとりの目を見据えて情熱的に英語を教えられた宗 盛治先生も出征され、戦死された。生きた生身の人間の思いが無視された時代であった。悲惨と苦難の連続ではあったが、二中生たちは多感な青春を生き、よくこれに耐えた。この困難な時代に、生徒たちをあたたかく見守り、ともに行動された先生がたの苦悩は大きかったと思う。
稿を終えるにあたり、世紀を超えていまも浮かび上がるのは、あの時代に生きた人間の志の残照である。戦争を体験したすべての二中関係者の魂が、母校に集合して二中時代を語り合い、同窓会である「翠嵐会」の暖かなふところの中で安らかに憩ってくださるよう念じている。