若い時、小田実の著作に惹かれた時があった。小田実全作品を購入して読んだように思う。ただ小説はよかったという印象はなく、その評論や思想に惹かれていたのかもしれない。
特に、「べ平連」の運動の基調になっている「加害者意識」「思った人が行動する」というスローガンにひかれた。当時、ベトナム戦争があり、ベトナムで多くの子ども達も死んでいた。日本はベトナム戦争に憲法9条があり、参戦はしていなかったが、アメリカ軍の後方支援は間接的にしていた。その為経済的には潤い、ベトナム特需で、日本人の生活は豊かになって行った。ベトナムの子どもたちの犠牲に上に、我々の豊かな生活があり、日本人はベトナム戦争の加害者であるという小田実の主張は、納得できるものであった。「べ平連」のデモにも参加した。また、大学院での研究(テーマ)も、自分の加害者性を否定するのはどうしたらいいのかということを、自問した。その小田実に関する紹介が、今日の朝日新聞にあったので、転載(一部抜粋)する。
今こそ小田実―ベ平連、日本の加害者性問う(2015年8月10日)
「殺すな」と訴える反戦運動が日本にあった。先頭には、焼け跡から来た男がいた。1967年、米紙ワシントン・ポストに「殺すな」という日本語の文字が躍った。ベトナム戦争に抗議する日本の反戦団体「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が出した意見広告だった。 米軍がベトナムへの空爆を始めた65年、ベ平連は結成された。代表に就いたのは32歳の作家・小田実だった。
ベ平連で小田は一つの発見をした。米国の戦争に日本が「加担」しているという事実だった。ベトナム攻撃に向かう米軍機は、日米安保条約に基づいて日本が提供する基地を利用していた。小田は「私たちの加害者性」を問うた。
国家に服従させられることで人は「殺す」立場に置かれる。小田は「市民の不服従が大事だ」と訴えた。
<足あと> 1932年、大阪生まれ。51年、小説「明後日の手記」。61年の世界旅行記「何でも見てやろう」がヒット作に。65年、ベトナム戦争に反対する「ベ平連」が始動、代表を務める。07年、75歳で死去した。