菊に関しては、以前にも書いたが、少し複雑な思い。
このような究極の美のような菊の成長の陰には、成長の途中で摘み取られた多くの菊のつぼみがある。
少し飛躍し過ぎかもしれないが、宮崎駿の「風たちぬ」の主人公二郎の作る飛行機の美の陰には、多くの犠牲がある。犠牲があるから美しいと考えるのか、そのような犠牲に上に打ち立てられた美は疎ましいと考えるのか、複雑な思い。(ネットからの転載)
http://blog.goo.ne.jp/sombrerorecords/e/fc082b472586d1994a96b6b975fdcece
<「ピラミッドのある世界と、ない世界、どちらがいいか」 という問いに、二郎は、つまり宮崎駿は「ある世界」と答えます。
何の話かというと、ピラミッドのある社会というのは、ピラミッドのような美しいものを、天才的なインスピレーションの具現化を沢山の普通の人々の苦しみが支える社会のことです。
この映画でいえば、二郎みたいな天才が飛行機を作ることを、他の才能のない人は苦しくても支えるべきだ、という話です。菜穂子の苦しみは言うまでもありませんし、二郎が飛行機の勉強や設計、試作に使うお金もそうです。途中、二郎は親友に「飛行機の設計に使うお金で日本中の子供にご飯を食べさせることができる」と言われています。そうは言っても、友達も二郎も「じゃあ、飛行機のお金を貧しい人々に回そう」なんて思いません。自分達は恵まれていて、好きなことができてラッキー、というのが二郎達のスタンスです。自分達の作った飛行機が、戦争で使われて人が殺されるわけですが、それも大した葛藤なく「お陰で好きなことができてラッキー」という感じです。
才能溢れた人が傍若無人に振る舞い美しさを追求すること。他の人々、特に庶民がその犠牲になること。そういうものが、残酷だけど、でも残酷さ故に余計に美しいのだという悪魔の囁き、宮崎駿の本音を、この映画は大声ではないものの、ついに小さな声で押し出したものだと思いました。( 横岩良太)>