習慣的な欲求について、考えてみたい。
人には長く生きて来て、習慣化していることがあり、それをしないと、何か居心地が悪く、イライラするということがある。(注)
それが、どのようなものかは、人それぞれである。毎日、散歩する、音楽を聴く、新聞を読む、テレビを見る、本を読む、パソコンに向かう、ペットと遊ぶ、花に水をやる、運動をする、などが思い浮かぶ。(喫煙や飲食、ゲームやパチンコが習慣化している人もいるであろう)
我々大学教員について考えてみると、仕事上、一番習慣化していることは、本を読むことと、そこからいろいろ思索することの2つである。さらに個人的に思索した内容を、表現したり、誰かと議論したりして、さらに深める作業が習慣化している。
したがって、大学教師は一日のうちで、授業や会議が続き、本が読めなかったり、思索の時間がないと、今日は大切なことをし忘れたという居心地の悪さを感じる。
大学教員は、授業や学生への指導で多くの時間が潰れると、早くひとりになり、本を読みたい、と思う。それは、大学教師が読書,思索という習慣的欲求を、仕事上第1に持っているからである。
ところが、大学改革などで、大学教師に要求されることもさまざまになり、また大学教師自身も変わりつつある。読書や思索を第1とは考えられない仕事環境や、読書や思索は好きでない大学教員志望生(学生、院生)も現われている。さらに、大学教員顔負けの読書家や思索家が世に多く、大学教員の特質が薄れている。
(注;このことを、作田啓一は、「習慣が責務の感情をひき起こす場合がある」と表現している。『価値の社会学』岩波書店、1972年、97~8頁)