内田樹には、2007年に出版した村上春樹論がある(『村上春樹にご用』)。その内容に関しては、昔読んだので忘れてしまったが、氏が村上春樹のよき理解者だという印象をもったことを覚えている。氏の最近の図書館職員たちへの講演(http://blog.tatsuru.com/2023/09/09_0927.html)で、村上春樹のふれている部分があり、村上春樹の作品の底流にあるものに関して明解に解説していて感心した。江藤淳との共通点(上田秋成を高く評価している)の指摘にも納得した。少し長いが、その箇所を転記しておく(中略あり)。
< 村上春樹という作家がいますが、彼は「自分は特殊な職能民だ」と言っています。どんな職能かというと、ふつうの人は地下一階までしか行かれないけれど、自分は地下二階まで降りることができる。地下二階まで降りるとそこには太古から流れ続け、いまも世界中に広がっている「水脈」みたいなものがある。そこから自分の持っている手持ちの器でいくばくかのものを掬って持ち帰る。地下二階にはあまり長くいると人間にとっては危険なことがあるので、用事が済んだらさっさと現実世界に戻ってきて、地下二階で経験したことを物語として語ってゆくのが仕事であると言うんです。自分はたまたまそういう人間であるということを、さまざまな文学論の中で素直に語っているんです。/ 村上春樹の書く物語って、全部そうですから。誰かが境界線の向こうに行って消えてしまって帰ってこない話、境界線の向こうから何か危険なものがやってくるので、それを押し戻す話。この二つが繰り返される。どれも境界線、ボーダーラインのこちらとあちらを往き来する話なんです。/ だから、村上春樹の小説にはほぼ全部「幽霊」が出てきます。「幽霊」というか、「この世ならざるもの」が登場してきて、主人公はそれとどうやって応接するかいろいろ工夫する。『羊をめぐる冒険』からずっとそうなんですけども、決定的になったのは、河合隼雄との対談『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』からのような気がします。/ この対談の中で、村上春樹が『源氏物語』について河合隼雄に「源氏物語に出てくる悪霊とか生霊とかいう超現実的なものは、当時の人々にとって現実だったんでしょうか」と質問したら、河合隼雄が「あんなものは全部、現実です」って即答するんです。/ 村上春樹自身、自分の文学的系譜をたどると、上田秋成に至ると言っています。上田秋成の書く話ってどれも「この世ならざるもの」が人を殺したり、人がそれから逃れたり、それと交渉したりという話なんです。 その上田秋成の直系の文学的系譜に自分は連なる者であると言うんです。/ 上田秋成の文学的価値の再評価を、21世紀に入って村上春樹がするわけなんですが、その前の1960年代に上田秋成を高く評価して、日本文学の淵源はここにあると言った人がいます。江藤淳なんです。/ 江藤淳は自分はかなりうまく英語を操ることができるが、英語では新しい文学を創造できない、何か文学的なイノベーションができるのは日本語によってだけだ、と(書いている)。日本語の淵源がある。江藤はそれを「沈黙の言語」と呼びました.。 江藤淳はもし日本から世界文学が出るとしたら、それは上田秋成の系譜からしか出てこないと予言するんです。そして、その予言の60年後に村上春樹が登場する。不思議な話です。/ 村上春樹の作品で最初に「この世ならざるもの」とのかかわりを書いたのは『羊をめぐる冒険』です。この作品を書き上げたことで村上春樹は専業作家になってやっていける自信がついたと書いています。/ ある日、自分が「鉱脈」に近づいた実感があった。毎日コツコツとのみを振って岩をくだいているうちに、だんだん地下水脈、地下鉱脈に近づいていった実感があったとインタビューで話しています。『羊をめぐる冒険』は結果的には世界文学になったんですけど、これは世界文学の系譜の直系という「鉱脈」に連なる作品だったからです。/ 『羊をめぐる冒険』ですと、「僕」という主人公がいて、「鼠」という親友がいますけれど、これは「僕」のアルターエゴなんです。傷つきやすくて、純粋で、道徳心にやや欠けたところがあるけれど、きわめて魅力的な男なんですが、それは「僕」の「少年時代」、アドレッセンスなんです。その幼い自分自身と決別しないと「僕」は大人になれない。アルターエゴは「僕」がこのタフでハードな世界で生きていくために切り捨てた、自分の一番柔らかい、一番優しい部分のことなんです。/ 物語にはいろいろな機能がありますけれど、アルターエゴとの別れの物語は「少年時代の自分を供養する」というかなり宗教的な機能を果たしていると思います。失われた少年期を供養する物語を、通過儀礼を過ぎて「つまらない大人」になってしまった世界中の男たちは求めていた。/ 書物というのは、その母語のアーカイブへの「入り口」です。書くことも、読むことも、この豊かな、底知れない母語のアーカイブに入ってゆくための回路です。それは日常的な現実とは離れた「境界線の向こう側」に、「地下」に、「この世ならざるもの」と触れ合うことです。>