大学の中間集団としての機能

全体社会と個人の間に、中間集団が存在し、全体社会の個人への侵害を守ってくれる。 中世の都市もそのような存在で、絶対王政から個人を守り、産業を発展させた。
教会もそのような中間集団としての役割を果たし、個人が教会に逃げ込めば、国家の力も及ばなかった。
家族は中間集団としての機能をもったのであろうか。西洋社会や中国では、そのような機能を果たしたが、日本の家族は、個人を守らず(れず)、全体社会から非難されると、「家族の名誉を傷つけた」ということで勘当された(作田啓一『価値の社会学』岩波書店、昭和47年)

大学は中間集団としての機能を果たしているのだろうか。昨日、敬愛大学の先生から次のような話を聞き、大学の中間集団としての使命をいろいろ考えさせられた。

「日本がアメリカの真珠湾を攻撃した時、アメリカの大学は、在米の日本人や日系人に対してどのようなことをしたのか。アメリカ国家が、日系人を強制的に隔離し収容したのに対して、アメリカの大学は彼らを守ろうとした。そのような史実がたくさんある。
今、尖閣湾を巡り、日中関係がぎくしゃくしている時、大学がするべきことは、中国人留学生を気遣い、守ることだ。中国人留学生は、日本という国家、また日本人一般から冷たくされるのではないかと心配している。そのようなことがないように、大学は留学生を見守り、大学の使命を果たすべきだ」