誰が真の犯人なのかを追及する探偵や推理ドラマを見ていると、リアルつまり真実は一つで、それが解明され、ドラマを見ている方もスッキリする。同様に冤罪事件を扱ったドキュメンタリー番組をみると、誰が真の犯人なのか、真実(リアル)を明らかにしてほしいと切に願う。
一方で、世のなかには、何がリアルで何がフェイクなのか、判定が難しいことも多い。「銀行が潰れる」というフェイクのデマで、多くの人々が銀行にお金を引き出しに行き、本当にその銀行が潰れてしまう場合、「銀行が潰れる」というフェイクのデマがリアルになる。教育の世界でも、教師や児童生徒の熱意や思い込みが、教育効果をあげることがよくあり、フェイクがリアルになることはよくある。(夢が実現するも同じ)。
以前に村上春樹の書くノンフィクションに関して次のように書いた(2016年3月13日「コトバガ現実を作る」)
<村上春樹のノンフィクションの方法もこれと似たところがある。村上春樹は、地下鉄サリン事件の被害者にインタビューしてその記録を『アンダーグラウンド』に、加害者にインタビューして『約束された場所で』に残す。それを執筆するにあたり、ノンフィクション作品の基本ともいうべき「事実の裏を取る」ということをしない、しかもそのことを自分の方法としているという(加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』岩波新書、2015年、p163)。<「語られた話」の事実性は、あるいは精密な意味での事実性とは異なっているかもしれない。しかしそれは「嘘である」ということと同義ではない。それは「別のかたちをとった、ひとつのまぎれもない真実なのだ>(「目じるしのない悪夢」『アンダーグラウンド』) この方法は、「近代的な遺制」を脱した現代の哲学思想の知の地平では常識的なことだと、加藤典洋は述べている(前掲、p164)。 エビデンスを重んじる現代の教育界の風潮や社会学の実証的方法にも、一石を投じるコトバだと思う。>
国際関係や政治の世界はさらに複雑で、リアルとフェィクが入り混じっている。