どこの大学でも教育学を学ぼうと思う学生は、子ども好きで、心優しい人が多いように思う。学校でいじめられて自殺した子どもが書いた遺書を読んでもらうと、涙を流し自分が教師になったらこのような悲しい思いを子どもたちに絶対にさせない決意する学生が多い。一方、社会学を学ぶとする学生は、そのような心情に一歩距離を置き、子どもは純真だけでなく計算高い面があり、遺書の書き方にもある意図が働いていると読むのではないか。
教育学と社会学の境界領域の教育社会学には2つの流れがある。1つは教育学に近い「教育的社会学」(Educational Sociology)。こちらは教師の為の教育社会学で、教育実践のための社会的条件を探ろうとする。もう一つは社会学に近い「教育の社会学」(Sociology of Education )。こちらは、教育実践には関心がなく、教育やそれを取り巻く社会の仕組みを鋭利に客観的に見ようとする。別の言い方をすれば、傍観者的に、意地悪く、皮肉に教育と社会の関係を見ようとする。何よりも分析の切れ味を大事にする。
私が上智大学で「教育社会学」の授業を担当した時、目指したのはどちらかというと後者の客観的な分析を目指す「教育の社会学」であった。受講した教育学科の学生から、「先生の教育社会学を学ぶと、人が悪くなります」と言われたことがある。当時は、そのことを気にも留めなかったが、この歳になるとそのことが気になる。
人はいつも損得(功利)を考え、差別意識を持ちながらそれを隠し、善意には裏があり、他者や社会の為よりは自分の利益の為に行動するものという人間観や人生観を、教育社会学の授業を通して教えようとしたわけではない。教育を客観的にそして批判的に見ることは大事ということを言いたかっただけである。学生たちが、教育社会学を学ぶにしても、人の善意を信じ、素直な優しい心を、大切にしてほしいと願う今日この頃である。