日本子ども社会学会26回大会から学ぶ

先週末(6月29日、30日)、東京成徳大学で日本子ども社会学会26回大会があり、参加していろいろなことを学んだ。学んだこと、そこで考えたことを記録にとどめておきたい。

「子ども理解」をめぐって、教員養成と保育者養成では違いがあるというテーマセッションの議論(片山悠樹氏他)を興味深く聞いた。教員養成の場合は、「子ども理解」というと、どのような視点から子どもを見るかで見える部分が違うので、視点をいろいろ変えて(見えない部分も)見るというのが必要と、教えている。子どもという実態が客観的に存在し、それを科学的な視点から明確にとらえることが必要と考えている。                                       ところが保育者養成では、子どもがどのようなことを考え行動するのかということを静的に(客観的に)みるのではなく、動的に(実践的に)みる。たとえば、子どもが砂場で遊んでいて、そろそろ次の場面に移ろうと保育者が考え、それを子どもに促したところ、子どもがそれを嫌がり泣き出した時、子どもの気持ちと保育の実践との間で、子どもの気持ちに寄り添うにはどのようにしたらいいのかを考え、自分の実践力を高める。それが保育者の「子ども理解」というものである。先輩の保育の仕方を学び、自分の実践を鍛えることが大切。(これは、教育とケヤの違いかもしれないと思った。保育は子どもを教育するよりはケアしている)

「子ども社会学研究」25号では、山田富秋氏が、「自律した個人ではなく、将来の市民社会の担い手として、依存とケアを必要とする子どもを社会の根底に位置づける必要に迫られる」と、ジョン・オニールとキテイの理論を紹介し、シティズンシップの教育の提案しているのには感心し、学ぶべきものが多くあると感じた。

文部科学省の全国学力テストは、小6と中3を対象に行われている。その得点や順位でみると、小学生も中学生も高い「維持型」(秋田、福井)、小学生も中学生も低い「停滞型」(大阪、北海道)、小学生が高く中学生で低い「下降型」(沖縄、高知)、小学生で低く中学生で高い「上昇型」(静岡、愛知)の4タイプがあるという。小学生の時、個性化や主体的な学びをして、それが中学生になり開花して「上昇型」になるというの解釈を、馬居政幸氏や西本裕輝氏が提示していて、興味深いと思った。高校や大学、さらにその先まで見通すとどうなるのであろうか。小中の学力の高い秋田や福井の子どもたちの学力は高校や大学、そして社会に出てからどうなるのであろうか。実証的に検証できないものであろうか。

村から出る学力と村に残る学力のどちらを教えるべきかの議論がある。現在地方は人口減少が続き、村から出る学力ばかり教えていては人口減少を加速させるだけである。そうかと言って、村に残る学力を教えればいいというわけではない。村に残るか、村から出ていくのかは個人の選択に委ねるべきで、どちらを選択しても、たくましく生きていく学力を育てなければならない(馬居政幸氏)。

<追記>I氏より下記の情報が寄せられた。文科省「英語教育実施状況調査」というのがあり、都道府県別のランキングも出ているが、調査自体にあいまいなところがあり、結果は信用できないとコメントする専門家もいるという。(紹介、コメントは下記)

https://news.yahoo.co.jp/byline/terasawatakunori/20190422-00123134/