今英語教育は読み書きだけでなくコミュニケーションつまり会話が重視されるようになっている。日本語を使わず英語だけで授業をする高校(千葉県立長生高校等)もあるし、大学入試でも会話力を見るために民間試験の導入が予定されている。何年も英語を学びながら英語での日常会話もままならない多くの日本人にとって、これからの英語教育のコミュニケーション(会話)重視は当然のことのように思われる。しかし、いくつか反対意見もあり、それを読むともっともと思う部分もあり迷うことになる。最近読んだ2つの意見を紹介しておく(一部転載)
「英会話ができるかどうか、上手かどうかは、学力にまったく関係ない」「日本語で考えれば、すぐにわかるはずだ。日本語がペラペラな子は勉強ができる子だといえるだろうか。ただおしゃべりができるというだけのことだ」「学校時代を振り返ってみよう。おしゃべりな子が必ずしも国語の成績が良かったわけではないだろう。逆に、無口で、人としゃべるのが苦手でも、国語の成績が抜群に良い子もいたはずだ。それもそのはず。会話が得意かどうかは学力とは無関係なのだから」(榎本博明「人と社会の役に立つ心理学」https://biz-journal.jp/2018/08/post_24455.html)
「自動機械翻訳が今すごい勢いで進化しています。文科省は、オーラル・コミュニケーションが必要だ、とにかく英語で話せなければダメだとさかんに言い立てていますけれど、そんな教育政策とは無関係に翻訳テクノロジーの方はどんどん進化している。英語だと、今の自動機械翻訳が大体TOEIC600点ぐらいまでだけれども、数年のうちに800点になるそうです。英語の専門家は1%くらいいれば済む。後は機械に任せておけばいい」「Pocketalk という手のひらサイズの自動翻訳機械でした。まさに『ドラえもん』の「ほんやくコンニャク」でした。そこには60ヵ国語が入っていて、ボタンを押して、日本語を言うと、外国語になって音声が出てくる。外国語音声を入力してもらうと、日本語の音声に訳される。SIMカードを入れると世界中どこでも使える。それが3万円台」「自動機械翻訳がオーラル・コミュニケーションにおける障害の多くを除去してくれるということになったら、一体何のために外国語を学ぶのか?」「ビジネスの場面でオーラル・コミュニケーションがうまくないと、侮られる、損をする、というようなことを英語習得の主目的を掲げているプログラムは存在そのものが無意味になるかも知れない」 「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分であると」(内田樹「英語教育について:」blog.tatsuru.com/2019/05/31_0824.html