2か月に1度くらいの頻度で、藤原新也のCat Walkのトークが、公開される。今回新元号「令和」について。氏らしい内容のコメントが公開されている。(一部転載する)
劇場化された新元号に関して。(Cat Walkより転載) 「令和」 ・文字としては座りが悪い。この令和には揮毫したいという意欲をそそる魅力がまったくない。それはこの人を見て写真に撮りたくなるかどうかと同じであり、令和には写真に撮りたい“姿”というものがないということである。・“筋”が見えない。筋とは例えば人間の背骨のような基本骨格であり、それがないからこの令和という文字は堂々と立っていないのである。・それに新元号に対する熱狂が過剰である。安倍総理の舞い上がりぶりは、内閣支持率が一つの人気の指標となった今日、新元号に便乗しての人気取りの恣意が透けて見える。巨大災害と事故はその後何をもたらしたと、いうと災害事故によって発症する被害妄想から来る居直りめいた日本賛美と右傾化である。日本はこんなに美しく素晴らしい。外国人はこんなに日本を賛美している。震災以降、テレビをはじめとする様々なメディアで日本賛美番組や記事がゾッとするほど増えたことは皆さんもご承知の通りである。・新元号令和はそういった大震災や原発災害で自信を失い、その反動としての日本賛美や一部の過激な右傾化の排出した時代背景の中で発表されたということだ。この過剰な熱狂もまた私には平成時代に発症したひとつの精神的外傷の発露のように受け取れるのである。・グロテスクでさえある右傾化と私たちが日常的に共有する時代名称とは全く無縁でなくてはならないということを心に留め置かなくてはならないだろう。(藤原新也 shinya talk より一部転載 www.fujiwarashinya.com/talk/
Cat Walk の会員からも多くのコメントが寄せられているが、令という字から連想するのは律令、法令など、政府の決めたことに逆らわず、素直に従う人々による社会をつくろうというメッセージを感じる、という意見が多かった。 これは、マスコミが好意的な意見を多く掲載しているのと大きく違う。いずれにしろ、これから「令和」という元号を使わざるを得ないので、これになじんでいくしかない。
追記 内田樹もコメントをブログに掲載している(一部転載)http://blog.tatsuru.com/2019/04/02_0912.html
文化的多様性を重んじる立場から、私自身は日本が固有の時間の度量衡を持っていることを端的に「よいこと」だと思っている。元号は645年の「大化」から始まって、2019年の「令和」まで連綿と続く伝統的な紀年法であり、明治からの一世一元制も発祥は明の洪武帝に遡るやはり歴史のある制度である。ひさしく受け継がれてきた文化的伝統は当代のものが目先の利便性を理由に廃すべきではない。 元号は、天皇制に深くかかわる国民文化的な装置であり、すべての国民が心静かに受け入れられるように最大限の注意をもって扱うべき事案である。安易に党派的な利害に絡めたり、経済波及効果を論じたりするのは、文化的伝統に対して礼を失したふるまいと言わざるを得ない。