学校の授業の時間や活動と授業以外のそれ(時間や活動)との関係をどのように考えればいいのであろうか。授業は、①教材、②教師、③教室、④児童・生徒といった学校教育を構成する主要な4要素が皆入った場で行われることなので、学校教育の中核で一番重要な場であることは間違いない。したがって教育学の研究で、授業研究、教科教育が主流を占めることに異論はない。ただ、「授業研究、教科研究の視点をもたない教育学の研究は意味がない」とまで言われると、それは違うと言わざるを得ない。
内にいては見えず、外からなら見えることがある。中にいては囚われて自由な発想ができないことが、外からは自由に考えることができることがある。また、「潜在的カリキュラム」という言葉を持ち出すまでもなく、児童・生徒が学校で学ぶことは、教師が教え導く授業の場だけでなく、学校生活全体からや教師が意図しないことからも学ぶことが多い。小中高大と長い学校生活の何から学んだんだろうと考えてみても、授業や講義から学んだという思いや意識は少ないのではないか。授業や講義には関係しているかもしれないが、自分で興味をもって調べたり本を読んだりして心に残っていることの方がはるかに大きいように思う。
教育学の中でも後発の教育社会学は、教育学が授業(教授、教科)を中心に研究していたのに対して、その外側の環境(地域、階層、文化等)に目を向けて、それとの関係で学校の教育を考えてきた。それで教育学の研究が主観やイデオロギーを離れて客観性を増し飛躍的にすすんだ。ただ教育社会学もその研究の視点を段々外から中に向けている。戦後初期に教育社会学研究を発展させた清水義弘先生は、教育社会学は学校というお城の外堀(地域や階層)を埋め、最後に目指すものは天守閣(カリキュラム)だといういい方をされていた。