カントリー意識とネーション意識1

首都大学の西島央氏(准教授)に、学生に配った資料と一緒に、敬愛大学の学生が書いた「ふるさと」の4番の歌詞を送ったとところ、下記のような返事をいただいた(本人の了解を得て一部転載)。

武内のメール
< 送っていただいた新聞記事を、藤原新也の「私たちは国土と民を失った」 (7月4日、朝日新聞)と、一緒にコピーし、敬愛の学生に 歌詞を書かせてみました。 ただ、このことにかけた時間が10分もなかったので、充分なものが出来ませんでした。 そのことを、ブログに書きましたので、ご覧ください。>

西島氏のメール
<《ふるさと》の続きづくりも、さっそく授業に取り入れてくださってありがとうございます。記事にもあるように、他の唱歌の歌詞の特徴の整理と、いまの歌での整理のような作業くらいはしないと、ただの替え歌になってしまいかねませんが、僕の手元に送られてきたものと比べて、かなり身近な情景を取り上げてらっしゃる傾向が強く、ちゃんと唱歌の続きになっているように感じました。
 藤原新也は、僕も読みました。僕は、唱歌の研究にあたって、ナショナルアイデンティティを、カントリー意識とネーション意識という2つの側面があるのではないかと、仮説的に分けて捉えました。(それは、上智で発表させていただいたときにも説明したように思います)本来相反するベクトルをもつこの2つの意識(共同幻想論的に)が、近代国家では、学校教育の、唱歌をはじめさまざまな仕掛けで、同じ方向を向くようにされてきたわけですが、両方がいいバランスで揃わないと、想像の共同体に過ぎない国民国家は不安定になるわけです。
 僕が《ふるさと》ブームを批判的に捉えているのは、カントリー意識に無自覚のまま、あっという間にネーション意識で、ナショナルアイデンティティ、そして国家のあり方(原発然り、尖閣然り)が語られていることに怖さを感じているからです。
 藤原新也を読んで、共感したのは、カントリーが奪われたのに、ネーションであることだけは期待されている、ということが、水俣の例と比較しながら述べられていることでした。
 ここ数年、僕自身は、唱歌の研究よりも、もう少し身近な問題として社会統合を扱える部活の研究に力を割いてきていましたが、今回のことを考えると、もっと唱歌の研究をしっかりやって、カントリーとネーションのことも主張しておくべきだったと、今さらながら反省しています。>