社会学の価値判断の基準に属性本位と業績本位という言葉がある。その人のありよう(属性)とその人のできること(業績)のどちらを重視するかの二者択一である。
ひとの出身階層や家柄は属性で、獲得した学歴は業績である。しかし学歴も属性になり、実力が業績になる。近代の社会では、未来に仕事のできる人、つまり業績主義の観点から人が評価される。
高齢者(老人)は、どのように評価されるのであろうか。近代社会では高齢者も、過去の仕事や地位からではなく、現在そしてこれから何ができるのかで評価される。すると高齢者のほとんど無価値ということになるような気がする。
しかし、上野千鶴子は次のように書いている。
「このひとが過去に何をしてきたかは問題ではない。その人の過去の生き方や姿勢がその人のふるまいに滲んでいると思う」
「その油の抜けたさりげない佇まいに好感を持った。そのひとの経てきた安易ではない時間がいまのこのひとを創ってきたのかと、目の前のそのひとのおだやかな風貌にあらためて見入った」
「何をするかでなく、だれであるのか。それも肩書や地位では測れないそのひとのありよう、ふるまい,口のきき方や身のこなし、つまるところそのひとの佇まいが、そのひとのいちばん大切な情報だと思うようになった」
「ひとがつき合うのは、そのひとの過去ではなく、現在とそしてそのひとの仕事ではなくその人の人柄とである」
「高齢者は過去の抜け殻ではない。それどころか、誰も経験したことない年齢という日々に新しい現実を探索している最中だ」
(上野千鶴子 「佇まい」『ひとりの午後に』より抜粋、明治大学、2015年度政経学部の入試で出題されている)
上野千鶴子 『ひとりの午後に』
高齢者は過去の生き方や姿勢の滲みでた現在の人格や佇まいという「属性」によって、また、今やこれからをどのように生きるかという「業績」によって評価されるべきということなのであろうか。
上記に関しては、I氏より下記のようなコメントも寄せられている。
<業績主義(メリトクラシー)自体が高齢者の評価には馴染まないでしょう。趣味のサークルで何をやった、とかは業績たり得ないでしょうし(そもそも、成果を得たくてやっているわけでもないでしょう)。「 高齢者は過去の生き方や姿勢の滲みでた現在の人格や佇まいという「属性」によって~評価されるべき」だとすれば、それはそれで残酷なことで、人格・佇まい(・カリスマ・オーラ)といった測定可能、超主観的な尺度で評価されれば、プラスの評価になる人間などごくごく少数なので。
エッセイストに転じた上野千鶴子は、『ひとりの午後に』の構成を見る限り、幸田文(および類似の女流文筆家)の影響を受けている or それらに似せようとしている感じがありますが、「佇まい」に代表されるやまと言葉の茫漠とした世界に逃げ込んでいる感がありますね。(今まで、論理バリバリの世界にいた反動?)。社会学者にしては文学がわかる、と故江藤淳に言わせ,『上野千鶴子が文学を社会学する』などの著書のある人ですから、それなりに文学に造詣もおありなのかと(思いますが)。あまりに社会学的な文学論。