運動能力のない私は、長年やっているテニスも卓球もなかなか腕は上達しないが、最近少し運動(特に球技)のコツのようなものが1つわかってきたような気がする。
それは、相手の打った球の勢いやリズムをいち早く感じそれと一体化し、それに呼応するように自分の体を反応させ、ラケットを差し出したり振ったりすればいいということである。
まず、自分を無にして相手のリズムに乗るというのが、大切のような気がする。そのリズムを感じさえすれば、その後の自分の動作は自然に出てくる。
有名な内田樹氏のブログを読んで、氏が武道に関して書いていることが、これと似ているなと思った。(内田樹研究室 blog.tatsuru.com)
<武道の要諦もまた他人の内部で起きていることに感覚の触手を伸ばすことにある。武道の場合は、自他の心身の間の対立を取り去り、自他の境界線を消し、「眼前に敵はいるが、心中に敵はいない」という「活殺自在」の境地に至ることをめざすわけであるが、その能力はまた他者との共生のためには必須のものだ。>
<武道が目指すのは「いるべきところに、いるべき時にいて、なすべきことをなす」ことです。いるべきところ、いるべき時、なすべきことを決めるのは、私の自由意志ではありません。そうではなくて、私たちに対する他者からの「呼びかけ」です。「呼びかけ」、英語で言えば、vocationとか callingということになるでしょう。これらは「呼びかけ」とともに「天職」「召命」を含意する語です。他者からの呼びかけに応えて、私たちは自分がいつどこでなにを果たすべきかを知る。「呼びかけ」のうち、もっとも受信しやすいのは、「救い」を求める声です。飢餓、寒さ、痛みなどは、どれもそれを放置すると命にかかわる身体感覚ですが、それはいずれも他者の緊急な介入を求めています。
人倫の基本は「惻隠の情」ですが、言い方に言い換えると「緊急な介入を求める他者からの救援信号を感知すること」ということになろうかと思います。>
さらに、内田氏は、家事や教育一般や家庭科教育に関して、下記のように書き、このように相手の思いに気が付くこと、それに答えることの大切さを説いている。
<家事というのは、本質的に他人の身体を配慮する技術なのだと思う。清潔な部屋の、乾いた布団に寝かせ、着心地のよい服を着せて、栄養のある美味しい食事を食べさせる。どれも他者の身体が経験する生理的な快適さを想像的に先取りする能力を要求する。家事においては、具体的な技術以上に、その想像力がたいせつなのだと思う。>
<学校教育とは、子どもたちが「他者と共生できる能力」を身につけることができるように支援することだ、というのが私の個人的な定義です。
この場合の「他者と共生できる能力」の中には、言語によるコミュニケーション能力や、合意形成能力や、「公共意識」など、さまざまなものが含まれますが、どれほど高度な社会的能力にせよ、その基本には、「惻隠の情」すなわち「他者からの緊急な介入を求める呼びかけを聴き取る力」、そのさらに基本には「他者の身体経験、生理過程に想像的に同期できる能力」がなくては済まされません。
家庭科教育はまさにそのような能力の開発にフォーカスした教科であろうと私は考えています。生活をともにする人たちの身体の内側で起きていることに想像的に触手を伸ばすこと。そのような能力がどれほどたいせつなものであるか、それについての社会的な合意はまだまだ不足しているように私には思われます。>
内田樹氏の本は、これまで何冊か読んで、大学教員にしていろいろ評論を書き、高橋源一郎と同じような進歩的文化人という印象をもっていたが、その経歴を見て、自分も少しだけ重なるところがあり、もう少し読んでみようかという気になった。
経歴―1950年大田区下丸子に生まれる。1966年都立日比谷高等学校に入学、後に退学、1970年東京大学教養学部文科III類に入学。1975年同大学文学部仏文科を卒業。以下略