社会学は、理想より現実に則して考え、きわめて常識に近い見方をするが、同時に常識を疑いその常識の出てきた根底を問う哲学的なところがある。その結果、常識を覆すところまではいかないが、常識に揺らぎをもたらし、その常識は8割くらい正しいかもしれないが、2割くらいは違うのではないか、と思わせるところがある。
ホームスクーリングは、学校は皆行くべきだと思っていた常識を揺るがす考え方(実践・制度化)であり、きわめて社会学的な研究対象になると思い原稿を書いたことがある。(下記、添付参照)
「人が学校に行くのと同様、社会に出て働くことは、きわめて当然のことで、働けるのに働かない人は怠けているに違いない」と考えるのが常識である。私自身もそのように考えている節がある。
ところが、朝日新聞の「働かざるもの…?」(2018年6月8日朝刊)を読んで、その考え方を揺がされた。
これは、まさに優れた社会学的な言説(見方)だと感心した。下記に一部転載しておく。
■「怠けている」、偏見強まる 仲谷もも(NPO法人ほっとポット副代表)
<「働かないのはだめな人間だ」。そんな風潮が非常に強くなった気がします。世間の雰囲気が変わったと感じたのは、2012年ごろ。芸能人の親族が生活保護を利用していたことを、国会議員がバッシングした年でもあります。
私たちのNPOは、ホームレス状態の人などの相談や支援にあたってきました。08年のリーマン・ショック後しばらくは、仕事や住まいを失った人を社会全体で、社会保障制度で支えようという雰囲気がありました。でも次第に、「仕事をしていない人は怠けている」という偏見が強まり、かき消された印象です。
相談に来た人に今後の希望を聞くと、「働きたい」と言われます。「働きたい」という言葉は、世間が満足する答えにすぎません。まずはしっかり食事をとり、病気を治し、心身を落ち着けられる住まいを見つけることが必要な人ばかりです。
憲法25条に定める生存権は、働いている人にもいない人にも、等しく保障される権利です。家庭環境や病気、解雇など、いまの状態は本人だけのせい、いわゆる「自己責任」ではないのに、相談に来る人のなかには「働いていないから、貧しい状態を我慢するのが当然」と考えている人も少なくありません。
生活保護は、就労につなげて早く保護から脱却させようという改正が重ねられてきました。保護を申請するとき、本人がどう自立したいかを書く際に何を書けばいいのか困っていると、「たとえば『働いて』とか」と役所の人が促したり、職業欄に「無職」ではなく「求職中」と書かせようとしたりする場面を何度も見ています。
そして、生活に困った人を支援する団体も、仕事に就くための就労支援を重視しているところが多いのではないでしょうか。私たちのNPOは、安心できる住まい、安定した生活費、そして本人の希望に応じた生きがいづくりを大切にしています。もちろん生きがいが仕事という人はいるでしょう。NPOで働く私もそう。でも、仕事ではない生きがいをもって日々生活している人がいてもいい。
働くってそんなに偉いことかな、と考えます。社会保障制度を利用している人が地域で暮らしていれば、たとえばヘルパーという仕事が成り立ちます。いくら生活に困っていても、消費税を払って買い物をします。社会の主人公は働く人だけではありません。
働ける人から働けない人に冷たい視線を向けるのは、もうやめませんか。立場はいつ逆になるかわからないし、普段からお互い支えあっていく。そんな生きがいのある社会はどう実現できるのか。「就労偏重」の支援が求められてしまういま、義務としての就労のあり方を考え直す必要があると考えています。>(社会福祉士)
■ 「ブラック」強いる不条理 筒井美紀 法政大学教授
<労働は、教育と同じく道徳化されやすい。働くことは「いいことだ」とか「人間は成長する」といった主張自体は間違いではないと思います。問題は、現状の改善にはまったく役に立たないことです。言っている方は気持ちよくても、まともないすを増やす、ブラックな働き方を減らすことには何の効果もなく、ただただ頑張れ、という精神論にすぎません。
高度成長期のように全体のパイが増えているときは、そんな物言いでよかった。現実を裏書きしているようにも、見えたのでしょう。
でも、いまの時代に必要なのは、どうすればみんなが気持ちよく働ける社会にできるのか、知恵を絞ることです。ビジネスを通してだけでしか社会や他者に貢献できない風潮になっていないか、気になります。働くことが難しい人、不可能な人もいるのに、無理強いする社会は間違っています。
ビジネスでも、すごいことでもない。けれど、やってくれたらだれかが助かることってたくさんある。では、どうすれば社会のしくみとして回せるのか。一度、既成の観念を壊して、「働く」とは何かを考え直すべきときではないでしょうか。(教育社会学)