高田宏著「言葉の海へ」(新潮文庫)は、「言海」を作成した国語学者「大槻文彦」
の生涯を描いたものである。その中で言海の「ねこ」の項が紹介されている。
ねこ(名)【猫】
[「ねこま」下略。「寐高麗」ノ義ナドニテ、韓國渡來ノモノカ。上略シテ、「こ
ま」トモイヒシガ如シ。或云、「寐子」ノ義、「ま」ハ助語ナリト。或ハ如虎(ニヨ
コ)ノ音轉ナドイフハ、アラジ。]
古ク、「ネコマ」。人家ニ畜フ小サキ獸。人ノ知ル所ナリ。温柔ニシテ馴レ易ク、又能
ク鼠ヲ捕フレバ畜フ。然レドモ、竊盜ノ性アリ。形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡
リヲ好ミ、寒ヲ畏ル。毛色、白、黑、黄、駁等、種種ナリ。其睛、朝ハ圓ク、次第ニ縮
ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ。陰處ニテハ常
ニ圓シ。
文彦が「言海」を完成させたのは明治24年、今から127年前である。猫に関して、「人
家ニ畜(か)フ小サキ獸」「能ク鼠ヲ捕フ」「竊盜ノ性アリ」「性、睡リヲ好ミ、寒ヲ
畏ル」其晴(そのひとみ),朝ハ円ク、・・・・・」と、人との関係、性格、性癖、体の
特徴などが克明に記されている。127年前と現在の猫を比較して興味を覚えるのは「小
サキ獸」という表記で、決して「ペット」ではない。
〇「能ク鼠ヲ捕フ」:私が子どもの頃は天井裏で猫が鼠を追い回す騒動をよく聞いた
ものだが現在はどうだろうか。築40年の平屋の我陋屋にも鼠の存在は窺えない。
〇「竊盜ノ性アリ」:「泣くに泣けない魚屋の猫」という洒落言葉があるが、一方サザ
エさんの「お魚くわえたどら猫、追いかけて」の歌もある。昔の家は開放的だったので
野良猫が台所に入り込み魚などを盗んでいったが、閉鎖的な現在の住宅ではそれも不可
能であろう。
〇「睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル」:これですぐ思い出すのは童謡「犬は喜び庭かけ回り、猫
はこたつで丸くなる」である。
〇「其晴(そのひとみ),朝ハ円ク、・・・・・」:文彦の猫の目の一日の変化を追う表
現は猫に対する彼のただならぬ執着を感じる。
「言海」の完成間近、文彦44才の時、1才に満たない女児を結核性脳膜炎で亡くし、続
けて30才の妻「いよ」も腸チフスで失う。失意の文彦を慰めてくれたのは庭に出没する
野良猫だったのかも知れない。
なお、大槻文彦は仙台藩士で、父は 儒学者・ 大槻磐渓、祖父は 蘭学者の 大槻玄沢で
ある。日本銀行を創設した富田鉄之助(仙台藩士)は無二の親友である。
蛇足:仙台では野良猫を「のっつぉねこ」を呼ぶ。今日も我が家の庭に何匹かの「のっ
つぉねこ」が通ってくる。(水沼文平)