仙台在住の水沼文平さんから、下記のメールとともに、仙台の縄文遺跡の訪問記を送っていただいた、掲載させていただく。東北は新潟と違った味わいそして歴史がある。
<初秋の高原とおいしい蕎麦を拝見しました。刺激されて昨日は仙山線で山寺に蕎麦を食べに行きました。車でなくローカル線での旅もいいものですね。>(水沼)
仙台市の南部にある「仙台市縄文の森広場」に行きました。
山田上ノ台遺跡で約4000~2500年前の縄文人が住んだところです。40軒ほどの竪穴式住居に250人位が住んでいたと言われています。周辺は住宅街になっており全体の発掘調査はできないようです。
すぐ南に名取川があり、古代は周辺がクヌギやナラなどの山林で、採集(クリ、トチ、クルミ、山菜、キノコ)、狩猟・漁撈(タヌキ、ウサギ・マス、サケ)、焼畑(ヒエ、アワ、キビ、ソバ)など、豊富な自然を糧に豊かな生活をしていたと思われます。再現された数軒の竪穴住居と貯蔵倉跡や落とし穴跡もありました。
この資料館には石器、土器、勾玉、火おこし、編布などを作る体験コーナーがあります。稲は弥生時代からというのが定説ですが、それ以前から東北には稲作がありました。稲作オンリーではなくごく一部の食物として栽培していたものと思われます。
東北縄文人(蝦夷・アイヌ)はこの豊かな自然を背景に「平和・平等・再生の祈り」を生き方のベースにしていたようです。注目すべきは住居のすぐ側に甕に入れた幼児の墓があったことです。住まいのすぐ側に埋葬することで赤ちゃんの再生を祈ったようです。
東北縄文人は1万年以上の長い間、日本列島の中で8割の人口を有し、三内丸山遺跡にみられるように定住していました。この時代の定住は世界的に見ても稀なようです。
大和王権が稲作の普及(律令制度)と仏教・神道を掲げ北進、多賀城を拠点に蝦夷との熾烈な戦い(悪路王・阿弖流為)に勝利、東北を植民地化し、東北縄文人の同化を図ってきました。
日本列島の北方に位置する縄文遺跡に立ち、4500年の時の流れと人々の営みを考えると、地下に眠っている無数の人々に東北人として親しみを感じました。今、東北縄文人の見直しが始まっています。何本もの栗の木がたわわに実をつけていました。
写真の一枚目は資料館、二枚目は縄文広場、三枚目は竪穴住居です(水沼文平)