粉川哲夫『都市の使い方』の中に、街を目隠して歩くと、いろいろな音が聞こえてきて聴覚が研ぎ澄まされるという記述があり、印象に残っている。同様に目の不自由な人は、健常者以上に、聴覚からさまざまなことを感じる能力に優れていることであろう。最近、アテネパラオリン大会のマラソンの金メダリスト高橋勇一氏より、「講演で学校の教室に入ると、目で見なくても、その教室の雰囲気が各教室で全く違うことを感じた」という話を聞いた。
上記は、聴覚文化がいかに大事かという話であるが、時代は逆に、聴覚文化から視覚文化の方に、あるいは複合文化の方に動いているように思う。
音楽でいうと、オーケストラ、独奏、独唱、合唱にしてもクラシックが段々人気がなくなりつつあるのも、聴覚優位のクラシックが今の時代に合わなくなっているのではないか。音楽のCDが売れないのも、同じ理由で、聴覚だけに訴える音楽はもう時代遅れなのかもしれない。クラシックも視覚に訴える工夫をする必要があるであろう。今の時代の音楽は、音だけでなく視覚重視で、ダンスや多彩な映像が混合した複合メディア満載で、テレビ。You Tubeを通して人々を楽しませているように思う。
そのようなことを、『感覚文化論』という本の書評を読んで感じた。 (以下朝日新聞6月25日朝刊より一部転載)
(書評)『感性文化論 〈終わり〉と〈はじまり〉の戦後昭和史』 渡辺裕〈著〉
『感性文化論 〈終わり〉と〈はじまり〉の戦後昭和史』
■聴覚より視覚優位へと認識転換
戦後のある時期まで、鉄道の案内の多くは聴覚を通してなされていた。車内では車掌が、駅のホームでは駅員が次の駅や乗り換えなどを肉声で放送し、客はそうした声に耳を傾けた。車掌の語りそのものが一種の職人芸と化すこともしばしばあった。だがある時期から車内やホームに電光掲示板が普及するようになり、放送は録音された短いものに変わるなど、視覚の占める比率が高まった。
本書を読むと、聴覚優位の文化は1964年の東京オリンピックの頃にはまだあったことがわかる。それをよく示すのが、開会式を中継したNHKのラジオとテレビの放送である。当時のテレビは白黒が主流で、ラジオを聴く人々の割合がいまよりも高かった。ラジオではアナウンサーが美文調のレトリカルな表現で人々を引きつけたばかりか、テレビの実況中継にすらラジオとよく似た特徴を認めることができた。
こうした聴覚優位の文化は、戦前から受け継がれたものであった。NHKラジオには、有名な合戦や野球の早慶戦をアナウンサーが実況する「架空実況放送」という番組まであったが、66年には終わっている。ラジオから白黒テレビへ、そしてカラーテレビへとメディアの主役が移り変わるなかで、聴覚優位から視覚優位へと感性文化のパラダイムが徐々に転換していったのである。< 評・原武史(放送大学教授・政治思想史)>
しかし、逆に今の時代、聴覚に特化した、聴覚を研ぎ澄ますことが求められているのかもしれない。
追記 西洋のクラシック音楽の限界に関しては、別の観点からであるが、次のような指摘も興味深い。
< アフリカやインドの音楽家に「西洋音楽はだめだ」と言われたことがありました。人を建物に閉じ込めて、太陽が落ちた時間から演奏を始めて、しかも2時間という枠まであって。自然の摂理を無視した環境で音楽をやることに何の意味があるのかと。《西洋音楽は、旋律や和声やリズムなどの枠組みで全ての音を律する。そうした「決まり」から飛び出した現代音楽は、いわば身内から異なる価値観を示し、権威に疑いの目を向け、世界との新たな対話の道を探るものだった》(■作曲家・一柳慧 朝日新聞 7月7日 朝刊)