「リベラルな価値」や「客観的な事実」の危機

先の兵庫県の知事選挙やアメリカの大統領選挙で、既存メディアとSNSなどの新しいメディアの対立が話題になっていた。そのことに関しては、保守の哲学者の佐伯啓思氏が、わかりやすい解説を,朝日新聞に書いていて、感心した(下記に一部転載)。

今既存メディアの「リベラルな価値」や「客観的な事実」が問われているが、それはマスコミだけのことではなく、社会科学の学問の大前提であったものが、今揺らいでいるということである。私的な感情を入れて書くオートエスのグラフィーの方が、客観性を装う量的調査より人々に説得力があるという現象も生じている〈2024年8月26日ブログ参照)。

(異論のススメ スペシャル)SNSが壊したもの 佐伯啓思  /  SNSが政治に与える影響は、日本でも、先ごろの兵庫県知事選挙において大きな話題になった。知事としての適格性が問われた斎藤元彦氏の再選は、SNS上の情報がなければありえなかったであろう。SNS情報が選挙結果を左右しかねないのである。 興味深いのは、ここで「既存のマスメディア」対「SNS」という構図ができたことである。新聞・テレビ等の既存のマスメディアは公式的で表面的な報道しかしないのに対し、SNS上ではマスメディアが語らない隠された真実、本音が語られるとみなされた。 もちろんSNS情報は玉石混交であり、その中には「隠された真実」が含まれているというのである。/ いうまでもなくこのような構図を最大限に利用したのはトランプ次期米大統領であ(る)。/ この「トランプ現象」の特徴は次のようなものだ。「既存メディア」は民主党のエリートに代表される「リベラルな思想や信条をもつ高学歴・高収入の人々」と結託しており、彼らは口先では自由・民主主義・人権・多様性などというが、実際は「リベラル派のエリート層」の利益を代弁するだけだ、とトランプ支持者はいう。SNSで流される一見むちゃくちゃなトランプ氏の独断の方が「真実」を突いている、と支持者はみる。/  欧米においても日本においても、「既存のマスメディア」は、基本的に近代社会の「リベラルな価値」を掲げ、報道はあくまで「客観的な事実」に基づくという建前をとってきた。そして「リベラルな価値」と「客観的な事実」こそが欧米や日本のような民主主義社会の前提であった。この前提のもとではじめて個人の判断と議論にもとづく「公共的空間」が生まれる。これが近代社会の筋書きであった。 SNSのもつ革新性と脅威は、まさにその前提をすっかり崩してしまった点にある。それは、「リベラルな価値」と「客観的な事実」を至上のものとする近代社会の大原則をひっくり返してしまった。民主政治が成りたつこの大原則が、実は「タテマエ」に過ぎず、「真実」や「ホンネ」はその背後に隠れているというのである。「ホンネ」からすると、既存メディアが掲げる「リベラルな価値」は欺瞞(ぎまん)的かつ偽善的に映り、それは決して中立的で客観的な報道をしているわけでない、とみえる。一方、SNSはしばしば、個人の私的な感情をむきだしのままに流通させる。/ 今日、公共性を成り立たせている、様々な線引きが不可能になってしまった。「公的なもの」と「私的なもの」、「理性的なもの」と「感情的なもの」、「客観的な事実」と「個人的な臆測」、「真理」と「虚偽」、「説得」と「恫喝(どうかつ)」など、社会秩序を支えてきた線引きが見えなくなり、両者がすっかり融合してしまった。「私的な気分」が堂々と「公共的空間」へ侵入し、「事実」と「臆測」の区別も、「真理」と「虚偽」の区別も簡単にはつかない。/ SNSのような「何でも表現できる自由なメディア」を称揚してきたのは、近代社会の「リベラルな価値」の信奉者である。とすれば、SNSによる政治と社会の混乱は、ただこの技術の悪用というだけの問題ではない。それはまた、近代社会を支えてきた「リベラリズム」という価値観の限界を示しているとみなければならないであろう。>(朝日新聞 2024年12月25日朝刊より一部抜粋)

次期学習指導要領について

我々教育研究者は、次期学習指導要領がどのような内容になるのかを、意識せざるを得ない。それに関しては、12月25日に新学習指導要領諮問の中教審の会議があり、その記事が26日の新聞にも掲載されていた。その記事の一部を下記に、転載しておく。

「教科横断授業、取り入れやすく 学校の裁量を拡大 新学習指導要領諮問 / 2030年度にも導入される小中高校の学習指導要領の議論が25日、始まった。20年度以降に導入された今の指導要領がめざす「主体的な学びの実現」などの方向性は維持しながら、多様な子どもへの対応やデジタル時代にあわせた教育、教員の負担軽減を図る内容をめざすことになる。/ 阿部俊子文部科学相が25日、中央教育審議会(会長=荒瀬克己・教職員支援機構理事長)に諮問した。 学習指導要領は、文科省が決める教育目標や内容で、学校で教える最低限の基準。約10年に1回の頻度で改訂されてきた。新指導要領に基づく授業は、小学校が30年度、中学が31年度、高校が32年度以降に始まる見込み。 文科相が検討を求めた主な内容は、学校ごとの教育課程の柔軟化▽情報モラルやメディアリテラシーの育成▽教科書の分量や年間の標準総授業時数(コマ数)――など。/ 今回は、「ゆとり教育」や小学校での英語教科化などにつながった過去の改訂と違い、大きな制度変更は想定されていない。一方、近年、不登校や日本語指導が必要な子ら個別の対応が必要な児童生徒が増えている。また、生成AIの普及もあり、画一的な知識教育ではない主体的な思考力の育成が強く求められている。/ このため、学校現場の実情にあった柔軟な指導をどう促すかが焦点となる。具体的には、各校の裁量で、例えば1コマの時間を5分短くして余剰時間を独自の学習に充てたり、教科横断型の授業をしたりしやすくする仕組みなどが検討される。また、長時間労働が指摘される教員の負担軽減も重要な論点となる。/ なり手不足が課題となっている教員の養成や採用に関しても、中教審に諮問した。社会人の免許取得の簡易化などが検討される。 いずれも約2年の審議を経て、26年度中にも答申が出される予定。/(朝日新聞デジタ2024年12月26日」))

12月25日の中教審の会議の様子は、文部科学省のサイトにある。/第140回中央教育審議会総会 「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」及び「多様な専門性を有する質の高い教職員集団の形成を加速するための方策について」の諮問/https://www.mext.go.jp/b_menu/activity/detail/2024/20241225.html

年賀状について

朝日新聞記事に、現在年賀状を出さない人は57%と大変多いという記事が載っていて、大変驚いた。年齢別のデータも掲載されていて若い人ほど年賀状を出さない傾向がある。メールやSNSが普及する中で、瞬時に人に情報を送れる現代において、時間差のある年賀状はまどろっこしいと感じる人が多いのであろう。高齢者でも「今年限りで年賀状はやめます」と書いてくる人が多くなっている。

昔子どもたちは、担任の先生にまず年賀状を出したが、今は先生の住所は個人情報で、子どもも知らないし、先生たちも教え子から年賀状が来るとは期待していないであろう。昔は、その年お世話になった人にはお礼を兼ねて年賀状を出し、引き続きの教示をお願いするのが礼儀と考えられていた。また、片思いの人(?)に年賀状を出し、その後の人間関係の進展を期待するということもあったと思う。

もう関係が薄れているのに、お互いに惰性で年賀状を出し続ける場合もある。年賀状をもらった以上、こちらからも出すのが礼儀なので出すことになるが、印刷された文字だけが並ぶ儀礼的な年賀状を辞めたいと思いながら、そのきっかけがなかなか掴めない。さらに高齢者にとって年賀状は「まだ生きています」ということのシグナルでもある。今年は、相手の住所も手書きで書いてみて、わかったことは、①自分の字が相変わらず下手だということ、②PCと年齢のせいで、漢字が書けなくなっていること。③年賀状書きは短い時間ながら、相手との昔の交友を思い出し、相手に思いを馳せる貴重な時間ということである。

朝日新聞記事の一部転載<「年賀状離れ」進んでいる? 若年層「出さない」高め   / 朝日新聞社が12月14、15日に実施した全国世論調査(電話)で、郵便で出す年賀状について今年「何枚くらい出しますか」と尋ねると、「出さない」が57%と半数を超えました。およそ30年前に行った、面接方式による全国世論調査では年賀状を「出さない」と答えていたのがわずか9%にとどまっていただけに、「年賀状離れ」が進んでいるようです。/ 今回の調査を年代別でみると、「出さない」と答えたのは18~29歳で78%と、若年層で高い数字でした。1995年のときは「出さない」人は20代(当時、調査対象は20歳以上)で11%でした。/ 2005年調査では、20代(当時、調査対象は20歳以上)は「出さない」が23%で、全体の16%より高く、どの年代よりも高い数字でした。その後の19年調査では、年賀状を「出さない」は全体で33%で、18~29歳は57%でした。/ 今回の調査で、「出さない」割合が最も低い年代は、42%の60代で、「出す」54%の方が上回っています。高齢世代にとって年賀状とはどういう位置づけなのでしょうか。知りたいところです。>(石本登志男,朝日新聞デジタル版、2024年12月29日)