餅つきの意味

世の中のことでわからないことは多い。たとえば年中行事のことでも、慣行どうりやりながら、何故そのことをするのかはわからないことが多い。今日〈30日〉、近所で餅つきをしている家があり、その前を通りかかり、一緒にいた孫は餅つきをやらせてもらい(下記写真)、私までお餅をいただいた。つきたてのお餅は柔らかく美味しかった。家に帰り、WEBで、何故年末に餅つきをし、お正月に餅を食べるのかを調べた(その一部を転載する)。」

<お正月が近づくと餅つきをするところも多いはず。そこで、餅つきの意味や由来・歴史・時期などを解説します。/ 日本には稲作信仰というものがあり、稲は「稲魂」や「穀霊」が宿った神聖なものだと考え、崇められてきました。稲から採れる米は人々の生命力を強める神聖な食べ物であり、米をついて固める餅や、米から醸造される酒はとりわけ力が高いとされています。そこで、祝い事や特別な日であるハレの日に、餅つきをするようになりました。餅つきは一人ではできないため、皆の連帯感を高め、喜びを分かち合うという社会的意義もあります。/とりわけ日本の行事文化の大黒柱であるお正月はお餅が重要な役割を果たすので、年末に餅つきをするようになったのです。/ お正月のお餅には特別な意味があります。古来より、新年を司る「年神様」という神様が元日にやってきて、新年の魂(年魂)を授けてくれると考えられてきました。ここでいう魂とは、生きる気力のようなものです。魂を頂戴した回数を数えれば年齢がわかるため、誕生時が一歳、それ以降は元日に年をとる「数え年」が昔は一般的だったのです./ 年神様が依り付いたお餅には年神様の魂が宿るとされ、その餅を家長が家族に分け与えたのが「お年玉」のルーツです。年玉は年魂という意味で、鏡餅のほか、家族分の小さな丸餅を神棚に供え、それを下してお年玉としていたといわれています。このお餅をいただくための料理が「お雑煮」で、お餅を食べることで新年の力がつくとされてきました。>(暮らしの歳時記ガイド、執筆者:三浦 康子より抜粋)(https://allabout.co.jp/gm/gc/460433/)

カモメは何を食べ、どこで寝ているのか

以前にも何回か書いたことがあるが、渡り鳥のカモメが、近くの浜辺(検見川浜)で群れて佇んでいる姿を見ることが多い。パンやご飯の残りを投げてやると飛び上がってキャッチし、地面に落ちたものも喜んで食べる。一昨日(12月28日)検見川浜に行った時は、持っていったパンやご飯がなくなっても、「まだくれるのかな?」という顔をされ、慌てて近くのスーパーに食パンを買いに行き、1斤ほどちぎって与えた。満足した様子を見て安堵した。よく見るとカモメもとても可愛い。普段何を食べているのか、夜はどこで寝ているのか心配になり、ChatGPTに聞いてみた。(以下、その質問と回答)

質問―渡り鳥のカモメは昼間は海辺で群れをなし佇んでいて、パンなどをあげると喜んで寄ってきますが、自分で餌を探して食べている姿を見たことがありません。カモメは何を食べているのでしょうか。また夜はどこで寝ているのでしょうか?

ChatGPTの回答―カモメは主に魚や小さな海洋生物を食べています。群れで海辺にいるときでも、彼らは餌を探しやすい環境にいることが多いです。具体的には、浅瀬で魚を捕らえたり、砂浜でカニや貝類、小型の無脊椎動物を探したりしています。また、人間が出すゴミや食べ残しも餌として利用することがあります。そのため、都市部や港でも頻繁に見られるのです。/あなたが「自分で餌を探している姿を見たことがない」と感じるのは、彼らが餌を探す時間帯や行動が比較的短い場合があるからかもしれません。効率よく餌を見つけたらすぐに群れに戻ることが多いため、そうした行動が見られない場合があります。/夜はどこで寝ているのかという点についてですが、カモメは安全な場所を選んで眠ります。具体的には以下のような場所が多いです:①海や湖の水面―捕食者から身を守るために、水面で浮かびながら眠ることがあります。特に風が弱く穏やかな夜に見られます。②砂浜や岩場―海辺の静かな場所や岩の上で眠ることもあります。③人間の建造物―都市部では、建物の屋上や港の構造物などで眠ることもあります。/カモメは集団で行動することが多いので、夜も安全を確保するために群れで眠る傾向があります。また、夜間は休息しているものの、完全に深い眠りに入るわけではなく、周囲の危険を察知できる状態でいることが多いです。/まとめ-昼間の食事:魚、小型の海洋生物、カニ、貝、人間の食べ物など。夜の寝場所:海の水面、砂浜、岩場、建物の屋上など安全な場所。

KODAK Digital Still Camera

「リベラルな価値」や「客観的な事実」の危機

先の兵庫県の知事選挙やアメリカの大統領選挙で、既存メディアとSNSなどの新しいメディアの対立が話題になっていた。そのことに関しては、保守の哲学者の佐伯啓思氏が、わかりやすい解説を、朝日新聞に書いていて感心した(下記に一部転載)。今既存メディアの「リベラルな価値」や「客観的な事実」が問われているが、それはマスコミだけのことではなく、社会科学の学問の大前提であったものが、今揺らいでいるということであろう。たとえば、客観性が売りの社会調査より、私的な感情を入れて書くオートエスのグラフィーの方が、人々に説得力があるという現象も生じている〈2024年8月26日ブログ参照)。

(異論のススメ スペシャル)SNSが壊したもの 佐伯啓思  /  SNSが政治に与える影響は、日本でも、先ごろの兵庫県知事選挙において大きな話題になった。知事としての適格性が問われた斎藤元彦氏の再選は、SNS上の情報がなければありえなかったであろう。SNS情報が選挙結果を左右しかねないのである。 興味深いのは、ここで「既存のマスメディア」対「SNS」という構図ができたことである。新聞・テレビ等の既存のマスメディアは公式的で表面的な報道しかしないのに対し、SNS上ではマスメディアが語らない隠された真実、本音が語られるとみなされた。 もちろんSNS情報は玉石混交であり、その中には「隠された真実」が含まれているというのである。/ いうまでもなくこのような構図を最大限に利用したのはトランプ次期米大統領であ(る)。/ この「トランプ現象」の特徴は次のようなものだ。「既存メディア」は民主党のエリートに代表される「リベラルな思想や信条をもつ高学歴・高収入の人々」と結託しており、彼らは口先では自由・民主主義・人権・多様性などというが、実際は「リベラル派のエリート層」の利益を代弁するだけだ、とトランプ支持者はいう。SNSで流される一見むちゃくちゃなトランプ氏の独断の方が「真実」を突いている、と支持者はみる。/  欧米においても日本においても、「既存のマスメディア」は、基本的に近代社会の「リベラルな価値」を掲げ、報道はあくまで「客観的な事実」に基づくという建前をとってきた。そして「リベラルな価値」と「客観的な事実」こそが欧米や日本のような民主主義社会の前提であった。この前提のもとではじめて個人の判断と議論にもとづく「公共的空間」が生まれる。これが近代社会の筋書きであった。 SNSのもつ革新性と脅威は、まさにその前提をすっかり崩してしまった点にある。それは、「リベラルな価値」と「客観的な事実」を至上のものとする近代社会の大原則をひっくり返してしまった。民主政治が成りたつこの大原則が、実は「タテマエ」に過ぎず、「真実」や「ホンネ」はその背後に隠れているというのである。「ホンネ」からすると、既存メディアが掲げる「リベラルな価値」は欺瞞(ぎまん)的かつ偽善的に映り、それは決して中立的で客観的な報道をしているわけでない、とみえる。一方、SNSはしばしば、個人の私的な感情をむきだしのままに流通させる。/ 今日、公共性を成り立たせている、様々な線引きが不可能になってしまった。「公的なもの」と「私的なもの」、「理性的なもの」と「感情的なもの」、「客観的な事実」と「個人的な臆測」、「真理」と「虚偽」、「説得」と「恫喝(どうかつ)」など、社会秩序を支えてきた線引きが見えなくなり、両者がすっかり融合してしまった。「私的な気分」が堂々と「公共的空間」へ侵入し、「事実」と「臆測」の区別も、「真理」と「虚偽」の区別も簡単にはつかない。/ SNSのような「何でも表現できる自由なメディア」を称揚してきたのは、近代社会の「リベラルな価値」の信奉者である。とすれば、SNSによる政治と社会の混乱は、ただこの技術の悪用というだけの問題ではない。それはまた、近代社会を支えてきた「リベラリズム」という価値観の限界を示しているとみなければならないであろう。>(朝日新聞 2024年12月25日朝刊より一部抜粋)

次期学習指導要領について

我々教育研究者は、次期学習指導要領がどのような内容になるのかを、意識せざるを得ない。それに関しては、12月25日に新学習指導要領諮問の中教審の会議があり、その記事が26日の新聞にも掲載されていた。その記事の一部を下記に、転載しておく。

「教科横断授業、取り入れやすく 学校の裁量を拡大 新学習指導要領諮問 / 2030年度にも導入される小中高校の学習指導要領の議論が25日、始まった。20年度以降に導入された今の指導要領がめざす「主体的な学びの実現」などの方向性は維持しながら、多様な子どもへの対応やデジタル時代にあわせた教育、教員の負担軽減を図る内容をめざすことになる。/ 阿部俊子文部科学相が25日、中央教育審議会(会長=荒瀬克己・教職員支援機構理事長)に諮問した。 学習指導要領は、文科省が決める教育目標や内容で、学校で教える最低限の基準。約10年に1回の頻度で改訂されてきた。新指導要領に基づく授業は、小学校が30年度、中学が31年度、高校が32年度以降に始まる見込み。 文科相が検討を求めた主な内容は、学校ごとの教育課程の柔軟化▽情報モラルやメディアリテラシーの育成▽教科書の分量や年間の標準総授業時数(コマ数)――など。/ 今回は、「ゆとり教育」や小学校での英語教科化などにつながった過去の改訂と違い、大きな制度変更は想定されていない。一方、近年、不登校や日本語指導が必要な子ら個別の対応が必要な児童生徒が増えている。また、生成AIの普及もあり、画一的な知識教育ではない主体的な思考力の育成が強く求められている。/ このため、学校現場の実情にあった柔軟な指導をどう促すかが焦点となる。具体的には、各校の裁量で、例えば1コマの時間を5分短くして余剰時間を独自の学習に充てたり、教科横断型の授業をしたりしやすくする仕組みなどが検討される。また、長時間労働が指摘される教員の負担軽減も重要な論点となる。/ なり手不足が課題となっている教員の養成や採用に関しても、中教審に諮問した。社会人の免許取得の簡易化などが検討される。 いずれも約2年の審議を経て、26年度中にも答申が出される予定。/(朝日新聞デジタ2024年12月26日」))

12月25日の中教審の会議の様子は、文部科学省のサイトにある。/第140回中央教育審議会総会 「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」及び「多様な専門性を有する質の高い教職員集団の形成を加速するための方策について」の諮問/https://www.mext.go.jp/b_menu/activity/detail/2024/20241225.html

年賀状について

朝日新聞記事に、現在年賀状を出さない人は57%と大変多いという記事が載っていて、大変驚いた。年齢別のデータも掲載されていて若い人ほど年賀状を出さない傾向がある。メールやSNSが普及し瞬時に人に情報を送れる現代において、時間差のある年賀状はまどろっこしいと感じる若い人が多いのであろう。高齢者でも「今年限りで年賀状はやめます」と書いてくる人が多くなっている。

昔子どもたちは、担任の先生にまず年賀状を出したが、今は先生の住所は個人情報で、子どもも知らないし、先生たちも教え子から年賀状が来るとは期待していないであろう。昔は、その年お世話になった人にはお礼を兼ねて年賀状を出し、引き続きの教示をお願いするのが礼儀と考えられていた。また、片思いの人(?)に年賀状を出し、その後の人間関係の進展を期待するということもあったと思う。

もう関係が薄れているのに、お互いに惰性で年賀状を出し続ける場合もある。年賀状をもらった以上、礼儀としてこちらからも出すことになる。印刷された文字だけが並ぶ儀礼的な年賀状を辞めたいと思いながら、そのきっかけがなかなか掴めない。さらに高齢者にとって年賀状は「まだ生きています」ということの表明でもある。今年は、相手の住所も手書きで書いてみて、わかったことは、①自分の字が相変わらず下手だということ、②年齢のせいで(PCのせいもある)、漢字が書けなくなっていること。③宛名を含めた年賀状書きは短い時間ながら、相手とのこれまでの交友を思い出し、相手に思いを馳せる貴重な時間ということである。

朝日新聞記事(2024年12月29日デジタル版の一部転載)

<「年賀状離れ」進んでいる? 若年層「出さない」高め/ 朝日新聞社が12月14、15日に実施した全国世論調査(電話)で、郵便で出す年賀状について今年「何枚くらい出しますか」と尋ねると、「出さない」が57%と半数を超えました。およそ30年前に行った、面接方式による全国世論調査では年賀状を「出さない」と答えていたのがわずか9%にとどまっていただけに、「年賀状離れ」が進んでいるようです。/ 今回の調査を年代別でみると、「出さない」と答えたのは18~29歳で78%と、若年層で高い数字でした。1995年のときは「出さない」人は20代(当時、調査対象は20歳以上)で11%でした。/ 2005年調査では、20代(当時、調査対象は20歳以上)は「出さない」が23%で、全体の16%より高く、どの年代よりも高い数字でした。その後の19年調査では、年賀状を「出さない」は全体で33%で、18~29歳は57%でした。/ 今回の調査で、「出さない」割合が最も低い年代は、42%の60代で、「出す」54%の方が上回っています。高齢世代にとって年賀状とはどういう位置づけなのでしょうか。知りたいところです。>