本(書籍)のカバーについて

日本の本(書籍)をみると、ほとんどに表紙とは別に意匠を凝らしたカバーがついている(雑誌にはない)。本を読む時は、このカバーが邪魔になることが多い。これは販売の為なのであろうか、それとも本棚に並べる時の見栄えの為なのであろうか。外国でも同様なのであろうか。また図書館ではこのカバーはどのようにしているのであろうか。生成AIに聞いてみた。チャットGPTの回答ははてな(?)という感じて、Bingチャトの方に納得(以下Bingチャトの回答の転載)

質問1―日本の本(書籍)には大抵カバーがありますが、図書館では、カバーははずして置かれていますか?

Copilot回答―はい、図書館の本には一般的にブックカバー(またはブッカー)と呼ばれる透明のフィルムが貼られていることが多いです。このフィルムは、資料を受け入れた際に図書館員が一冊ずつ行う作業の一部であり、一般的に「ブッカーかけ」や「ブッカー貼り」とも呼ばれています1。この作業は、資料の納入業者に依頼する図書館もあれば、手作業で行う図書館や学校図書館もあります。/ブックカバーフィルムを貼ることにはいくつかのメリットがあります:紫外線から資料を守る: 窓の多い図書館や学校図書館は明るく開放的ですが、紫外線は資料にとって大敵です。ブックカバーフィルムは紫外線をカットし、資料の劣化を抑えて長期保存を可能にします。/抗菌効果と除菌・消毒: 図書館の資料は多くの利用者が触れるため、アメニティB-コートと呼ばれるブックカバーフィルムは優れた抗菌作用を持ち、表紙の除菌・消毒を可能にします。/資料の傷みや汚れから守る: ブックカバーフィルムは資料の表紙を傷つけずに保護し、汚れがついた場合は拭き取ることでキレイに保てます。(以下略)

質問2―外国の本でも、カバーがあるのが一般的ですか? アメリカはどうですか?

Copilot回答―はい、外国の本でも一般的にカバーがついています。特にアメリカでは、本のカバーは重要な要素となっています。それでは、外国の本のカバーについて詳しく説明しましょう。/国際的な本のカバーについてのポイント:異なるカバーデザイン: 国際的な本のカバーは、国や地域ごとに異なるデザインを持っています。たとえば、アメリカで出版された本が英国で出版される際には、異なるカバーが使われることがあります1。これは、市場ごとの好みや文化的背景の違いを考慮して、読者にアピールするために行われています。/カバーのデザインとマーケティング: カバーは、本の内容を伝えるだけでなく、販売戦略においても重要です。カバーのデザインは、読者の目を引き、購買意欲を高める役割を果たします。アメリカの出版社は、世界的な英語圏での出版権を保持していることが多く、そのため異なる国で同じ本を出版する際には、カバーの再デザインが必要です。/文化的な配慮: カバーのデザインは、文化的な違いを考慮して行われます。色、シンボル、フォント、図案、登場人物の民族性など、ターゲット市場のカバーデザインに合わせて研究することが重要です。また、ターゲット市場の読者にコンセプトアートを送り、意見を聞くことも大切です/アメリカの本のカバーは、19世紀から現代に至るまで進化してきました。19世紀には出版社の装丁(publisher’s bindings)が登場し、印刷可能な布カバーが一般的になりました。この時期には、エンボス加工や金箔、多色のリトグラフなど、さまざまなカバー印刷技術が使用されました。これにより、カバーデザインが芸術的な領域として発展しました。/アメリカの本のカバーは、タイトルや著者名だけでなく、カバーアート、カラースキーム、タイポグラフィなどの要素で読者にアピールしています。

追記1―(上記に関して下記のようなコメントが寄せられた)/本のカバーに関してはヤフー知恵袋にいろいろ出ています。大事なのは本の中身です。大学図書館は、大学としての教育と研究活動のための図書館です。カバーや帯で本文の学術的な価値は変わりません。加えて、カバーを付けると手間やコストが増えます。公共図書館とは本の使われ方も違い、フィルムを貼って耐久度を上げないと本が持たないということもありません。資料によっては、公共図書館と同様の装備をする大学図書館も増えています。ただ、今では、教育や研究に関係のない本を置いて学生を呼び込む大学図書館もあります(k)。

追記2―(ヤフー知恵袋の記事)質問;本にカバー的なのが基本的に付いてるじゃないですか?あれって邪魔じゃないですか?何のためにあるのでしょうか。そのカバーを外すと絶望的にダサい色になってたりする。/回答1; 美麗で個性的なデザインのカバーも込みで「本」だと思っているので、邪魔に感じたことは一度もないです。/ 回答2;本は、委託販売品で、売れなければ返品され、また再出荷されたりする。カバーなしの本だと、流通している段階で表紙に傷がついてしまい、再出荷のときの化粧直しでは直しようがなく、廃棄されることになり、原価が上がる。カバーがついている本なら、カバーの傷みで済み、カバーの交換で再出荷ができ、ロスが少ない.

自分の書いた文章や本の再読について

以前に書いた文章や出版した本を読み返すことはどのくらいあるのだろうか。村上春樹や藤原新也は、自分の書いた本を読み返すことはほとんどない、と言っていたように思う。藤原は多くの本を出版しているが、その本を手元に置いていないとも書いていた。

私は今回、たまたま研究仲間と昔一緒に書いた本(『キャンパスライフの今』玉川大学出版部、2003年)を読み返す機会があった。それを読みながら、「こんな文章を書いていたのか」とか「昔は大学や大学生に関してこのように考えていたのか」という感想をいだいた。同じく同書を読み返してくれた人がいて、その感想がアマゾンのコメント欄に掲載されている。(以下そのコメントの転載)

20年を経て見えたものー武内清編『キャンパスライフの今』(玉川大学出版部)が発行されたのは2003年でもう20年の時が過ぎている。当時院生の私はすぐに手に取った。教育社会学の基本をきちんと備えて、しかも学問書であっても都会的なお洒落な雰囲気の素敵な本だと思った記憶がある。本著には、「知性に裏付けられた優しさ」がある。/ そして2024年の今、必要があって本著を探した。私はこの間何度も転居を重ねていて自宅の乱雑な本棚からこの本を探すことができず、学部を卒業した慶応大学の図書館でこの本に向き合った。 改めて読み直すと、20年前には感じることができなかった読後感を持った。/ まずは非常に緻密な研究書であるということである。「大学生文化研究会」の調査が元になっているが、これは1997年に19大学2130人と1998年7大学の454人へのアンケートや聞き取り調査が基盤になっている。ひとつのアンケートを実施するにも、大学の許可や担当教員の監督のもと、学生の協力を得ての実施にはどれほどの面倒があったことだろう。そのデータがさまざまな方向から考察され、データからの考察の生成が確実なものとなっている。また、全国大学生活協同組合連合会の調査など多くの大学生調査の資料が丹念に検討されている。教育社会学の訓練された研究者たちならではのデータと資料の分析である。こうしデータや資料の分析から当時の「キャンパスライフの今」が描かれている。/ 第9章(渡部真)には、「非行や犯罪、精神疾患など心配しなければならない状況におかれている青少年と対極に今の大学生は位置している」とある。大学生は特権的で恵まれた階層であるのがさらりと述べられている。この感覚は当時大学に院生として在籍していた私には皮膚感覚としてよくわかる。/ 15章(岩田弘三)の統計の中にも「『修学継続困難』の中身」として娯楽嗜好費があげられ、これが大学生にとって「健康で文化的な最低限度の大学生活」の維持に欠かせないとされている。/ この事象のみならず、大学生活が多方面から視点をあてられ、キャンパスの様子がいきいきとわかる構成になっている。今、読み直すとそれぞれの学生には困難や苦悩はあったろうが、概観として豊かな時代であったことが感じられる。/ 翻って現在はどうだろう。経済的な難しさが言われて、大学生もその困難を免れない者が多くなっている。コロナのせいもあるとはいえ、誰もが名前を知っている大学で食料配布が行われたニュースが相次いだ。豊かな学生が集まっていると言われている慶應大学で2024年には経済的困窮の学生に定期的にワタミのミールキットを無料配布するという発表には心底驚いた。全国の大学では奨学金の問題も大きくなるばかりである。/ おそらくそれと表裏に、名門大学には有名私立中高一貫校からの進学者がほとんどになっている。かつては地方国立大学の独壇場であった地方銀行に就職できるのが都内名門大学出身者に代わっている。もちろん日本を代表する大企業へのアクセス権は都内名門大学のみになっていると言っても過言ではない。/ このような事態がどうして起こったのか、またそれが肯定されるべきことかどうかわからない。おそらく教育社会学の研究手法、分析手法もこの20年で大きく変化してより緻密な研究成果が期待できるだろう。であるなら、今再びの「キャンパスライフの今」を期待する。多くの教育社会学者よ、どうか今のこの衰退に向かっているしかない日本の突破口になるべく再びキャンパスを論じて欲しいと強く願うばかりである。/ 恐ろしいほど整備され、恵まれた生育で気持ちも良い学生たちが黙々と勉強している三田の図書館でそんなことを思った。(小林かをる)