これは奇遇とまで言えないかもしれないが、この2~3日同じようなことを言っている文章に接した。これはかなり珍しい少数意見なので、同時期にたまたま読む巡りあわせは、奇遇と感じた。内田樹のブログの文章(2024-04-15)、佐伯啓思の『さらば、欲望』(幻想舎新書)の中の文章、天声人語(2024-04-28)の3つである。
第1は内田樹「ポスト日米安保の時代」で、その中に下記のような記述があった。(http://blog.tatsuru.com/)
<日米安保条約を米国が廃棄して在日米軍基地がなくなるというシナリオもあり得る。/ そうなると何が起きるか。日本の安全保障は以後日本人が自分の頭で考えなければならなくなる。でも、日本の政治家も官僚も戦後80年「日米同盟基軸」という話しかしてこなかったので、日米安保がなくなった場合の安全保障については何も考えていない。/だから、米国から「あとはよろしく。自分の国は自分で守ってね」と通告されたら、政治家も官僚も腰を抜かすだろう。そして、仕方なく自衛隊にすがりつく。国防について「実際的に」考えてる機関はそこしかないからである。 国防構想を丸投げされた自衛隊はとりあえず、憲法九条二項の廃棄と国家予算の半分ほどを国防費に計上することを要求するだろう。恒常的な定員割れを補うためには徴兵制の復活も当然議論の俎上に上る。(以下略)>
アメリカ軍が日本の安全保障を守ってくれると日本人のほとんどが考えていて、もしアメリカ軍が撤退して、「自分の国は自分で守って」と言われるなんて考えたこともないという指摘はその通りだと思う。アメリカの大統領がトランプになったらそれも現実味を帯びている。
第2は、佐伯啓思「壮大な『ごっこ』と化した世界」 (朝日新聞2019-10-2、『さらば、欲望』収録)で、その中には下記のような記述があった。
<戦後の「保守派」を代表する評論家、江藤淳の自死が1999年、ちょうど20年前になる。先ごろ逝去された評論家の加藤典洋氏の仕事も江藤淳から強い刺激を受けたものであった。/ 江藤さんの評論の軸は、ほとんど米国の属国といってよい戦後日本の主体性の欠如を明るみに出す点にあった。その起点になるのはGHQ(連合国軍総司令部)による占領政策であり、占領下にあって「押し付けられた」戦後憲法とGHQによる言論検閲であった。それ以降、日本人は米製憲法を抱き、米国からの要求をほとんど受け入れ、米国流の価値や言説を積極的に受容してきた。これでは、国家としての日本の自立は達成されない、というのである。/(中略)(日本では)どれもが「革命ごっこ」「自主防衛ごっこ」「ナショナリズムごっこ」に過ぎない。「ごっこ」とは真の現実に直面しない虚構のなかの遊びである。鬼ごっこは虚構の鬼をめぐる遊戯であって、本物の鬼が出てくれば成りたたない。日本で政治運動や思想運動が「ごっこ」にしかならないのは、戦後日本がもっぱら米軍とその核の傘に依存して国家の安定や平和を維持してきたからであり、その決定的な現実に右も左も目をつむっているからだ。/ これらの運動や思想が本当のリアリティを持ちえないのは、すべて、対米従属という戦後日本の基本構造を真に問わないからである。>
これは 内田樹の論と同一であり、佐伯の論が古いことから、内田が佐伯の論をなぞったとも考えられる。この論の元に、江藤淳や加藤典洋の論がある。
第3は、天声人語(2024-4-27)の下記の記述である。
<(前略) 03年からの自衛隊イラク派遣。政府は、憲法の制約で、多国籍軍司令官の指揮下には入らないと説明した。だが防衛省は密かに、司令官の意見に「合致するよう配意」して行動せよと命じていた。忖度しろということだろう▼指揮権はしっかり己の手のうちにあるのか。戦後の歩みの中で、たびたび俎上にのぼってきた問いである。岸田首相が米国で指揮統制の連携強化を約束してきたことに、野党などが「自衛隊が事実上、米軍の指揮下に置かれる」と懸念している▼杞憂(きゆう)であることを願う。(後略)>
これは、日本の主権を主張しているようでいて、暗黙に日本の安全保障がアメリカの庇護のもとにあるのが当然で、それが永遠に続くという前提があり、その前提の上で、駄々を捏ねているとも読める。
アメリカ軍の庇護と日本国憲法の第9条のもと、日本は「少ない」防衛費と徴兵制もなく戦後80年安寧に暮らしてくることができたが、アメリカの国力の衰弱、撤退、自国主義、中国の台頭、ロシヤや北朝鮮の日本への侵攻などが現実味を帯びている現代では、日本の防衛をどのようにすべきか、真剣に考える時期かもしれない。それは日本の戦前に戻れということでは決してないが。
この先のことに関しては、内田氏と佐伯氏の考えは同じではない。内田氏は「米国の政治学者に『日米安保以外に西太平洋の安全保障戦略にはどんなものがありますか?』と尋ねたらいくつかのシナリオをすぐ語り出すはずである」と書いている。佐伯氏は「リアリティとは、そこにある現実そのものではない。それは、われわれが常にそこへ立ち戻り、方向を指し示してくれる価値や経験と深く関わる。 近代日本にとっての最大の経験はあの戦争とその死者たちであった。死者たちをたえず想起することによって、せめて『ごっこ』を自覚することぐらいはできるのであろう」と述べている。(ただ虚構自体も現実で、それを知って(知らんふりをして)、その虚構をうまく利用しようとしているのが、日本の保守と革新の「ごっこ」だとしたらーと考えると事態はさらに複雑になる)。