アグロステンマが庭で咲く

あまり見ない花だが、稲毛海浜公園の「花の美術館」で群生して咲いていて、綺麗だと気にいって、3月ごろホームセンターで苗を買って来て庭に植えたアグロステンマが咲き始めた(一部は去年の種から)。庭のいろいろな箇所に植えたので、見栄えはしないが、風に揺れる姿はさわやかで、初夏を感じる。

「アグロステンマは、地中海沿岸から西アジアに、3種が分布している一年草です。ヨーロッパでは麦畑の雑草として知られるほど丈夫な性質なので、原産地以外にも分布を広げています。園芸的に育てられているのは、アグロステンマ・ギタゴ(Agrostemma githago)で、秋まきすると、翌春には1mほどに伸びた茎先に、ピンクの花を咲かせます。土質はあまり選びませんが、水はけがよいことと、日当たりがよいことが、上手に育てるポイントです。」https://www.shuminoengei.jp/m-pc/a-page_p_detail/target_plant_code-612

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高祖敏明先生の叙勲をお祝いする

元上智学院理事長の高祖敏明先生(上智大学名誉教授)が、旭日重光章を受章されたという知らせが、上智大学教育学科からが届いた。新聞にも掲載されている(下記)。私は高祖先生と上智大学教育学科に在職中の20年間同僚として一緒させていただいた。心からお祝い申し上げる。

「春の叙勲 4209人が受章/ 政府は29日付で、2024年春の叙勲の受章者4108人と、外国人叙勲の受章者101人を発表した。日本人受章者のうち、女性は435人(10・6%)で、民間受章者は1888人(46・0%)だった。/ 旭日章は政治家や民間人、瑞宝章は公務員がおもな対象。/ ■旭日重光章  高祖敏明(元上智学院理事長)77歳」 (朝日新聞 2024年4月29日朝刊)

「叙勲は、日本において個人の功績や業績を国家が表彰するための制度です。その功労の質的な違いに応じて旭日章または瑞宝章のいずれかを授与するものとされています。旭日章は、社会の様々な分野における功績の内容に着目し、顕著な功績を挙げた者を表彰する場合に授与されます。叙勲は、国家に貢献した人々を称えるための重要な制度であり、その意義は大きいものとなっています。」(Bing Chat)

日本の安全保障について

これは奇遇とまで言えないかもしれないが、この2~3日同じようなことを言っている文章に接した。これはかなり珍しい少数意見なので、同時期にたまたま読む巡りあわせは、奇遇と感じた。内田樹のブログの文章(2024-04-15)、佐伯啓思『さらば、欲望』(幻想舎新書)の中の文章、天声人語(2024-04-28)の3つである。

第1は内田樹「ポスト日米安保の時代」で、その中に下記のような記述があった。(http://blog.tatsuru.com/

<日米安保条約を米国が廃棄して在日米軍基地がなくなるというシナリオもあり得る。/ そうなると何が起きるか。日本の安全保障は以後日本人が自分の頭で考えなければならなくなる。でも、日本の政治家も官僚も戦後80年「日米同盟基軸」という話しかしてこなかったので、日米安保がなくなった場合の安全保障については何も考えていない。/だから、米国から「あとはよろしく。自分の国は自分で守ってね」と通告されたら、政治家も官僚も腰を抜かすだろう。そして、仕方なく自衛隊にすがりつく。国防について「実際的に」考えてる機関はそこしかないからである。 国防構想を丸投げされた自衛隊はとりあえず、憲法九条二項の廃棄と国家予算の半分ほどを国防費に計上することを要求するだろう。恒常的な定員割れを補うためには徴兵制の復活も当然議論の俎上に上る。(以下略)>

アメリカ軍が日本の安全保障を守ってくれると日本人のほとんどが考えていて、もしアメリカ軍が撤退して、「自分の国は自分で守って」と言われるなんて考えたこともないという指摘はその通りだと思う。アメリカの大統領がトランプになったらそれも現実味を帯びている。

第2は、佐伯啓思「壮大な『ごっこ』と化した世界」 (朝日新聞2019-10-2、『さらば、欲望』収録)で、その中には下記のような記述があった。

<戦後の「保守派」を代表する評論家、江藤淳の自死が1999年、ちょうど20年前になる。先ごろ逝去された評論家の加藤典洋氏の仕事も江藤淳から強い刺激を受けたものであった。/ 江藤さんの評論の軸は、ほとんど米国の属国といってよい戦後日本の主体性の欠如を明るみに出す点にあった。その起点になるのはGHQ(連合国軍総司令部)による占領政策であり、占領下にあって「押し付けられた」戦後憲法とGHQによる言論検閲であった。それ以降、日本人は米製憲法を抱き、米国からの要求をほとんど受け入れ、米国流の価値や言説を積極的に受容してきた。これでは、国家としての日本の自立は達成されない、というのである。/(中略)(日本では)どれもが「革命ごっこ」「自主防衛ごっこ」「ナショナリズムごっこ」に過ぎない。「ごっこ」とは真の現実に直面しない虚構のなかの遊びである。鬼ごっこは虚構の鬼をめぐる遊戯であって、本物の鬼が出てくれば成りたたない。日本で政治運動や思想運動が「ごっこ」にしかならないのは、戦後日本がもっぱら米軍とその核の傘に依存して国家の安定や平和を維持してきたからであり、その決定的な現実に右も左も目をつむっているからだ。/ これらの運動や思想が本当のリアリティを持ちえないのは、すべて、対米従属という戦後日本の基本構造を真に問わないからである。>

これは 内田樹の論と同一であり、佐伯の論が古いことから、内田が佐伯の論をなぞったとも考えられる。この論の元に、江藤淳や加藤典洋の論がある。

第3は、天声人語(2024-4-27)の下記の記述である。

<(前略) 03年からの自衛隊イラク派遣。政府は、憲法の制約で、多国籍軍司令官の指揮下には入らないと説明した。だが防衛省は密かに、司令官の意見に「合致するよう配意」して行動せよと命じていた。忖度しろということだろう▼指揮権はしっかり己の手のうちにあるのか。戦後の歩みの中で、たびたび俎上にのぼってきた問いである。岸田首相が米国で指揮統制の連携強化を約束してきたことに、野党などが「自衛隊が事実上、米軍の指揮下に置かれる」と懸念している▼杞憂(きゆう)であることを願う。(後略)>

これは、日本の主権を主張しているようでいて、暗黙に日本の安全保障がアメリカの庇護のもとにあるのが当然で、それが永遠に続くという前提があり、その前提の上で、駄々を捏ねているとも読める。

アメリカ軍の庇護と日本国憲法の第9条のもと、日本は「少ない」防衛費と徴兵制もなく戦後80年安寧に暮らしてくることができたが、アメリカの国力の衰弱、撤退、自国主義、中国の台頭、ロシヤや北朝鮮の日本への侵攻などが現実味を帯びている現代では、日本の防衛をどのようにすべきか、真剣に考える時期かもしれない。それは日本の戦前に戻れということでは決してないが。

この先のことに関しては、内田氏と佐伯氏の考えは同じではない。内田氏は「米国の政治学者に『日米安保以外に西太平洋の安全保障戦略にはどんなものがありますか?』と尋ねたらいくつかのシナリオをすぐ語り出すはずである」と書いている。佐伯氏は「リアリティとは、そこにある現実そのものではない。それは、われわれが常にそこへ立ち戻り、方向を指し示してくれる価値や経験と深く関わる。 近代日本にとっての最大の経験はあの戦争とその死者たちであった。死者たちをたえず想起することによって、せめて『ごっこ』を自覚することぐらいはできるのであろう」と述べている。(ただ虚構自体も現実で、それを知って(知らんふりをして)、その虚構をうまく利用しようとしているのが、日本の保守と革新の「ごっこ」だとしたらーと考えると事態はさらに複雑になる)。

奇遇に関しての生成AIとの会話

奇遇と感じることが起きる時がある。その理由を生成AI(ChatGPT)に聞いてみた。下記がその回答。

質問1―奇遇はなぜ起こるのでしょうか。あるいはなぜ奇遇が起きたと感じるのでしょうか。

回答1(ChatGPT)―奇遇が起こる理由やその感じ方は、文化や個人の信念によって異なることがあります。一般的には、奇遇は偶然の産物と見なされることがあります。例えば、予期せずに知人と道で出会ったり、長い間忘れていた友人から突然連絡があったりすることが奇遇と感じられることがあります。これらの出来事は、偶然の一致や予測不可能な要素が重なることによって奇遇として認識されることがあります。また、文学や物語においても奇遇はよく用いられるテーマです。物語の展開やキャラクターの運命が、偶然の出来事や思わぬ出会いによって変化することがあります。これは物語においてドラマや興味を生み出す要素として利用されることがあります。奇遇が起きる理由や感じ方は人それぞれですが、多くの場合、それが偶然性や予測不可能性を含むことが奇遇として感じられる要因の一つとなります。

質問2―奇遇に関しての回答、ありがとうございました。もう少し神秘的な回答を期待したのですが、そのような面はありませんか。

回答2(ChatGPT)―もちろんです、奇遇に関する神秘的な側面について話しましょう。例えば、人々が予期せぬ出来事に出会うとき、それが運命の導きや宇宙の力と関連付けられることがあります。古代の文化や宗教では、奇遇や偶然は単なる偶然ではなく、宇宙や神秘的な力の働きを感じさせるものとして捉えられていました。また、奇遇は時に個人の人生の転機や成長につながるきっかけとなることもあります。例えば、偶然の出会いが新しいチャンスをもたらしたり、意外な展開が人生に深い影響を与えたりすることがあります。これらの奇遇は、人生の航海において私たちを導く星のような存在とも言えるかもしれません。

物語や歌の伝承について

現代の知識や感覚だけでものごとを見ていると、見落としてしまう点も多い。ものごとの歴史を見なければいけない。小説は刊行され一旦作家の手を離れると、作者の思惑とは関係のない一個の独立したものとして扱われると言われる。しかしそれは印刷技術が発明されてからのことかもしれない。歴史的にみれば、印刷のなかった時代の小説(物語)は、口頭で伝承されたり、写本されたりした。すると話をする人や写本をする人の考えや解釈によって、元の物語が改編されることは多々あったと思われる。むしろその方が普通で、源氏物語などオリジナルな底本がなく、いくつもの写本が存在する。さらに伝承物語というものがあり、口承伝達が普通で、バリエーションのある様々な物語が存在する。

これは物語(小説)の世界のことだけでなく、音楽の世界でも、昔はオリジナルな楽譜があるわけではなく、あっても曲の一部だったり、複数存在したりし、楽譜は時代とともに変化する。子どもの「わらべ歌」などは、口承で伝達され、地方により時代により、その内容は違っている。現代の音楽のカバー曲なども、この伝統を受け継ぎ、時代を反映した新しい歌や歌い方が人々に受け入れられているのであろう。

このようなことを考えたのは、前のブログに書いた神野藤先生の博士論文「散逸した物語世界と物語史」の概要を読んだせいだが、確認するために、生成AIに聞いてみた。

質問A―現代の小説は一度刊行されるとその後書き換えられることはありませんね。印刷技術のない時代の昔の物語(古文)は、写本や伝承で後世に伝承されたと思いますが、その際に時代に合わせたり、伝承する人の考えで、その物語の内容が変わることはよくあったのでしょうか?

回答(Bing Chat)―古代の物語は、文化を形作り、知識を伝え、世代をつなぐために重要な役割を果たしてきました。これらの物語は、時代と地理を超えて、原始的な洞窟の壁画から口承、手書きの写本、印刷された本、そして現在のデジタルメディアまで進化してきました123.古代の物語は、後世に伝承される際にさまざまな変化を経験しました。以下に、古代の物語がどのように変化したかについていくつかの観点を示します。伝承者の影響:物語は、伝承者の考えや文化的背景によって変化することがありました。伝承者は、物語を自分の視点で解釈し、時代に合わせて調整することがありました。このため、同じ物語でも異なるバージョンが存在することがあります。社会的・文化的変化:物語は、社会や文化の変化に合わせて調整されることがありました。新しい価値観や信念が広まると、物語の内容も変化しました。たとえば、宗教的な物語は、宗教的な変革に合わせて再解釈されることがありました。口承伝承の特性:古代の物語は、口承伝承によって伝えられたため、伝承者の記憶や解釈に依存していました。このため、物語の内容は伝承者によって微妙に変化することがありました。文学的影響:古代の物語は、文学的な作品や詩に影響を与えました。たとえば、ホメロスの「イリアス」は、アレクサンダー大王の征服に影響を与え、その後の世代にも影響を及ぼしました1。総じて、物語は歴史を形作り、文化を伝え、人々をつなげる重要な手段であり、その内容は時代や伝承者によって変化することがありました。

質問B―伝承物語って何ですか

回答(Bing チャット)―伝承物語は、民間において口承で伝えられてきた散文形式の物語を指します。これらの物語は、語り手が聞き手に口頭で伝える伝承(口承)の形式を持ち、一定の型を備えています1。さて、昔から伝わる物語には「民話」「昔話」「おとぎ話」などの類似した複数の名称があります。例えば、民話は民間の人々が生活の中で伝えてきたもので、口承を基本的な伝承の様式として持つ散文の形式です。また、伝説は民間において口承で伝えられてきた散文形式の物語で、しばしば具体的な事実や人物と結びついています。さらに、世間話は昔話と共通する散文形式の物語であり、様式性や虚構性を重視しない点で異なります1。伝承物語は、古くから世界中で語り伝えられており、日本でも多くの優れた研究が行われています。これらの物語には、知恵や教訓、人生の知恵を学ぶ要素が含まれており、現代の子どもたちにも同様に効果的であると考えられています。学校教育においても、伝承物語を積極的に活用することで、生きる力を育む一助となることが示されています12。伝承物語は、私たちの文化遺産であり、その教育的価値を探求することは、子どもたちの成長にとって重要な一環です。12

質問C―歌をカバーするというのはどのような意味がありますか? その歌に時代性や新しい意味を付与するという意味でしょうか?

回答(Bing チャット)―「歌をカバーする」という表現は、元々の歌を別のアーティストが再演することを指します。この行為にはいくつかの意味が含まれています。再演とアレンジ:アーティストが元の歌を自分のスタイルで再演することで、新たなアレンジや解釈を加えます。これにより、歌に新しい魅力や感情が生まれることがあります。時代性の付与:カバーされた歌は、その時代の音楽や文化の影響を受けて再構築されることがあります。アーティストは、現代の視点や感性を反映させて歌詞やメロディをアップデートすることで、歌に新たな意味を与えることがあります。トリビュートとリスペクト:一部のカバーは、敬意を表すために行われます。有名なアーティストやバンドの楽曲を再演することで、彼らへのリスペクトを示すことがあります。総じて、歌をカバーすることは、音楽の進化や多様性を促進し、新しい視点で楽曲を楽しむ機会を提供します。