民主主義における義務について

今日(3月21日)の朝日新聞の記事「教育を受ける権利とは? 麻布中入試問題『すべて国民』から考える」を読んで、「外国籍の子の公立小中学校への就学は義務ではないが、希望する場合には、無償で受け入れる」「各自治体は、義務教育年齢の子の名前や住所を記載する『学齢簿』に外国籍の子を載せること」「日本語が苦手な子が十分な学力を身につけるためには、サポートが必要」は、この分野に関することできわめて真っ当なことを書いているなと思う。しかし同時に、外国籍の子どもや親が、黙っていても、日本人と同等の教育を受ける権利を得られると考えるのは、少し違うのではないかと思う(日本人の子どもが外国に行った場合も同様)。

私も日本が批准している子どもの権利条約や国際人権規約の精神に基づいて、日本に在住する外国籍の子どもには(たとえ親が不法滞在者であっても)、日本人の子どもと同等の教育を受けさせるべきと思うが、外国籍の親と子どもがそのことを努力もせずに待っていれば、自治体から自然に与えられるものと考えればいい訳ではない。その権利の履行の訴えや努力をすべきと思う。

内田樹は、「民主主義は『それをこの世界に実現しようとする遂行的努力』というかたちで、つまりつねに未完のものとしてしか存在しない」と的確に述べている(「民主主義をめざさない社会」http://blog.tatsuru.com/2020/03/26)。つまり民主主義の国家においては権利は所与のものとして存在するのではなく、達成(遂行)努力して手に入れるべき義務も伴うものである。フランスでは、「子どもが家族の一員として認められるのは、(お手伝いなど)家族の一員としての役割を遂行することによって認められる」という話をフランス人から聞いたことがある。日本人の(権利)意識には、この遂行的努力(義務)の精神が欠けていると思う。