田中角栄が住んだ「目白御殿」の焼失に言及した朝日新聞の天声人語(1月10日)の最後に次のような一節があった。「田中政治とは、未来を信じられた高度成長期の産物と言える。昭和の政治と言ってもいい。鉄道や道路を張りめぐらせた「光」と、政治をカネまみれにした「影」。その象徴だった目白邸の焼失に、改めて時代の変遷を思う。残照はいよいよわずかとなり、影ばかりが長く伸びる。」
その中の「光」と「影」という視点に興味をひかれた。光があれば必ず影が生じる。光だけで影をなくすことはできない。影をなくすと人はどのようになるかは、村上春樹の最新刊『街とその不確かな壁』(新潮社、2023)の主要なテーマである。その本とは別の箇所だが、村上春樹は影に関して次のように言っている。「僕に必要とされるのは、この影をできるだけ正確に、正直に描くことです。影から逃げることなく。論理的に分析することなく。そうではなくて、僕自身の一部としてそれを受け入れる。でも、それは影の力に屈することではない。人としてのアイデンティティを失うことなく、影を受け入れ、自分の一部の何かのように、内部に取り込まなければならない。」「自らの影に対峙しなくてはならないのは、個々人だけではありません。社会や国にも必要な行為です。ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国にも影があります。明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ポジティブなことがあれば、反対側にネガティブなことが必ずあるでしょう。ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません。」(https://www.buzzfeed.com/jp/sakimizoroki/murakami-andersen)
心理学者の河合隼雄は、『影の現象学』(思索社、1976)の中で、「人間にとって影とは不思議なものである。それは光のあるところには必ず存在する。私の影は常に私と共にあり、時に大きく、時に小さく、あるいは濃淡の度合いを変化させながら、まぎれもなく、私のものとして付き従ってくる」(5頁)、「影を抑圧して生きながら、影の反逆を全く受けていないように見える人もある。しかし、よく見るとその人の周囲の人が、その影の肩代わりをさせられている場合が多い(聖人君子の子どもが放蕩息子や犯罪者)。」(44頁)と書いている。
村上春樹が言っているように、人だけでなく組織や制度にも、また社会や国家にも光と影があり、その両方が相まって政策や活動が展開されている。その影が大きくなり悪がはびこるのは避けなければならないが、影を完全に消滅させればいいという問題ではない。影が消滅することは光も消滅することを意味する。消毒された真っ白な世界に、人工的なロボットは生きられても、人間が生きられるのかどうかわからない。