教育研究で思いつくこと

本日(12月21日)、少人数の内輪の教育に関する研究会があり、そこで少し話さなければならないかもしれず、思いついたことをメモした。それを記録に残しておく。

1 教育評価について

 教育評価に関して、教育学や教育現場では議論されているようだが、私自身はそれに関してこれまで学んだことも関心をもったこともない。教育学の研究者の教育評価に関する論を少し読んだことはあるが、蛸壺のような狭いところで不毛な論議をしているようで、それ以上読む気にならず、読むのを放棄するのが常である。/矢野真和氏の大学教育学会での講演(学習成果の多元性と教学マネイジメント)(『大学教育学会誌』(45-1)を読んで、大学だけでなく小中高の学校の児童生徒の評価も、学校の立てた到達目標に関する評価(アウトプット)だけでなく、卒業後その児童生徒が在学時代に学んだ知識技術態度(資質)が、その後のキャリヤ(大学での学び、職業生活、社会生活)どのように影響し、どのような成果を上げているのかのアウトカム(収入や地位も含む)を考えた評価を考えるべきではないかと思った。/ 中央教育研究所が過去に行った非大卒者に対するインタビュー調査(小学校の時に学んだどの科目が今の仕事に役立っているのかを、様々な職種の人に聞いている)もその関心にもとづいていたと思う。(研究報告      No.62  「再考 21世紀における基礎学力―-生活者の求める学力と学校のあり方-」(平成15)     / 昔教育社会学会の大会で聞いた発表で、大学短大卒の女性で、どの学部(専攻)を卒業した学生が、将来の収入(世帯収入)が多くなるかを調べたもので、一番世帯収入が多くなるのは、短大ないし4大の家政学部を卒業した女性であるという結果が印象に残っている。彼女らは収入の高い男性と結婚し、専門職で働く女性より世帯収入が高くなっていたのである(今は違うと思うが)/ 教育学や教育社会学のキャリア研究も、このようなアウトカム(卒業後の成果)という観点から分析すべきと感じた。

2 教育格差に関連してー教員の質について

現在、教職志望者の減少や教員採用試験の倍率の低下で教員に質も心配されている。そのことで、思い出すのは、(個人的なことだが)私の学んだ千葉県の公立小学校での教員の質は昔(70年くらい前)は高かったのではないかと思う。/ 千葉の郊外では、家庭も貧しく、親も日々の生活を維持するのがやっとで、親の子ども教育への関心も低かった。塾もお稽古にも通ったことはなく、家には本もなく、学ぶ場は学校だけであった。その世代の4大の大学進学率は18%で、小学校の1クラスから50人中9人が大学に行く時代であった/ 私は小学校の同級生50名の卒業後の進路でわかっているものは少ないが、大学名で言うと、慶応、早稲田、ICU, 独協、千葉大(医学部)、東大(各1)とかなり名だたる大学に進学している。5,6年の時の担任のK先生(女性)は、優秀な教員で新潟(佐渡)の教員だったのを引き抜かれた人と聞いたことがある(後に市川の名門の真間小学校の教頭を務めている)、その教育効果があったのでないか。私も含め家庭の教育資源のない時代には、学校教員の質が、児童生徒の将来のアウトカムを決定していたのではないか(実証的なデータは示せないがそのように思う)。

3  テーマの領域 (マクロ、ミドル、ミクロ)

調査(研究)テーマを考える時、今の時代、狭い範囲の事柄に焦点付けられることが多いと思う。マクロ、ミドル、ミクロでいえば、ミクロの領域である。/ また、あまり、教育の根本や政策の前提を疑うことをしない。文部科学省の政策(学習指導要領の改訂等を含む)を既存の前提として、その前提を疑うことがなく、細かい技術的な問題ばかりに終始する傾向があるように思う。/ 教育実践に関しても、学習指導要領に即しているかだけが問われる。/ 学際的な教育研究では、「哲学的な」根本の問いや、広い社会的視野が必要と思う。

4 補足 1の教育評価の補足になると思うが、大学の教育内における評価に関しては「学修の自己評価について」をブログに書いたことがある(2019年3月12日)