ジェンダーの短歌

ジェンダーの問題は複雑で捉え難い。先に書いた大野道夫氏が紹介・解説する歌を読んでそれを感じた。

「皆殺しの<皆>に女は含まれず生かされてまた紫陽花となる」(大島静佳、2018) 

この歌に関する大野氏の解説(注)に下記のような記述がある。

<黒澤明の映画「7人侍」(1954)では、野武士に拉致されて生かされたいる女性が、(野武士の)燃える砦から出たところで元夫と出くわしてしまい、再び火の中に戻っていく。手塚治の『火の鳥1、黎明編』(1976)』の巻末では、侵略されて男が皆殺しにされた後で、残された女が「女には武器があるわ/勝ったあなたがたの/兵隊と結婚して/子どもを生むことだわ」「生まれてきた/子は私たちの/子よ」「私たちは/その子たちを育てて/いつか あなたを/ほろぼすわよ」と言う。平家物語の最後には、生かされて出家した平清盛の娘の生涯が語られている>(大野道夫『つぶやく現代の短歌史』234ページ)

ジェンダー論やフェミニズムにおいては、強者(男性)と弱者(女性)という権力関係が自明視されているが、それが必ずしも実態に即していないこと(女性の方が強者)もある、ということであろうか。

大野道夫『つぶやく現代の短歌史1985-2021』を読む

前にも書いたが私は短歌や和歌について知識や素養が全くなく、それを読むのに苦労するし、読んでも理解できないことが多い。しかし、私の周囲(知り合い)には、それらをたしなむ人が少なからずいる。石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」「こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ」(「一握の砂」) 等の歌に惹かれ、日々感じたことを短歌にし、自費出版した同年代の友人(大学教員)もいる。

また大学の後輩の教育社会学の研究者の大野道夫氏は、青年文化の専門家でありながら、短歌の世界ではかなり有名である。その大野氏から、最近出版した本(『つぶやく現代の短歌史1985-2021,「口語化」する短歌の言葉と心を読みとく』はる書房、2023,8)を送っていただいた。内容は、1985年から現代までの短歌の流れを理論的に考察し、さらに約250首の短歌に関して、その読み方を解説しているものである。大きな分析の枠組みとして、「修辞・主題・私性」の3つを挙げ、年代、世代ごとに短歌を明解に分析、説明している。「ライトな私」(1985)→「わがままな私」(1990年代)→「かけがえのない私」(2000年代)→「つぶやく私」(2010~2021)という世代別の分析は鮮やかである。それぞれの歌の読み方は大野氏の主観によるものであるが、きわめて説得的で納得できるものが多い。私は これからそれを再読し、短歌に関する素養を少し養おうと考えている。さしあたり、下記のような礼状を出した。

<アカデミックで、それでいて読み易く、ユニークな著作である『つぶやく現代の短歌史』をお送りいただきありがとうございます。とても素敵なご本で、短歌に疎い私でも、楽しんで読んでいます。とても勉強になり、きちんと読めば、私でも短歌のことがわかるようになるかもしれないという予感を感じます。それぞれの短歌の解釈に説得力があり、それが大野さんの学識と教養とセンスから自然に生まれたことが感じられます。社会学の理論や概念からの視点も、有効に作用し、感心します。考えてみたいなと思ったことは、私性の私(作者)≒<私>(作中の主体)、つまりその2つの違いや移行についてです。ほとんどの作者が、虚構ではなく現実に体験したことから歌を詠んでいて(5章 社会調査で検証する現代の短歌と歌人)、短歌と小説との違いを感じました。ひとまずご著書の御礼まで>。