敬愛大学教育学部 2023年度「教育社会学」第1回 講義内容

今年度の後期の「教育社会学」の第1回の授業を対面で、昨日(9月25日)に行った(対象は2年生、必修科目、受講生73名)。私が教壇に立つのは8か月ぶり。少し緊張したが、学生は熱心に聞いてくれて、私の講義から教育社会学という分野に興味をもってくれたようで(リアクションからわかる)、対面授業もなかなかいいものだと思った。/講義に先立ち、3種類の授業資料を配布した。① 武内清「教育、大学、文学、ドラマ、日常―教育社会学考察」(2022),② 武内清「教育知識の社会学」『敬愛大学国際研究』33号、2020 ③ A3で、28ページ(14枚)のプリントである。(以下、講義内容)

それでは、資料の説明を含めて、講義を行います。3つくらいのことをお話する予定です。お配りした小さい紙に、感想(コメント)も書いて下さい。/ まず、この授業の科目名の「教育社会学」とは、何かということです。今日は、要点のみお話します。教育社会学を簡単に言いますと、研究対象は教育(現象)で、方法(見方は)社会学ということです。教育現象というのは、学校教育が主になりますが、それだけでなく、人の成長や家庭教育、幼児教育も、青少年教育も、企業内教育も、社会教育も、生涯教育も教育なので、それらを研究する分野です。学校教育が教育の中核になりますので、学校の社会学的研究や実践は、とても重要な分野です。教員を目指す皆さんにとっても役立つ分野です。/  研究(考察)する方法が、社会学です。社会学というのは、どのような学問、つまり見方をするのか、わかりますか? チャトGPTに聞いた回答をプリントしました(添付参照)。見て下さい。概略はチャトGPTが述べているようなものですが、別の言い方をしますと、社会学は社会秩序の学問、つまりどのようにして社会の秩序が保たれているのかを明らかにする分野ともいわれています。ただ社会秩序を保つことがいいことだと言っているわけではなく、(つまり価値中立的)、社会秩序の原因―結果を明らかにし、現実に即して改善点を考えようとするものです。教育学が、理想からものごとを考えるのに対して、現実からものごとを考えようとするのが社会学です。/ 皆さんは、心理学に興味をもっている人が多いと思いますが、社会学には、社会心理学という分野もあり、人の心理の社会的な側面も含め、社会との関係を解明しますので、純粋な心理学より、幅が広く、また深く、役立つ分野です。/ そのような社会学という方法で、教育という現象を見ていくのが、教育社会学なので、その扱う分野は、とても広くなります。ただこの授業では、皆さんが将来、教員を目指している人が多いと思いますので、それに合わせて、学校教育の分野の社会学的な考察が主に取り扱います。

第2に、授業の方法に関して説明します、対面での授業は、今回だけで、次回以降、オンデマンドの遠隔授業になります。オンデマンドというのは、いつ見てもいいということです。同時配信のズームではありません。講義メモと、追加の授業資料の配信は、KCNを通じて毎週月曜日までに行います。オンデマンドなので、いつでも時間のある時に読んで下さい。講義メモには、読む授業資料の指示と、課題が書かれています。毎回の授業資料は、今日お配りしたもの3種類(冊子と紀要とプリント)と、KCNで配信するものの4種類です。その回答を、なるべく1週間以内に送って下さい。(ただ、遅れても受付ます)/ 最後は、少し長めのレポートになります。評価は、毎回の解答と最後のレポートで行います。

第3に、今日お配りした冊子(武内清「教育、大学、文学、ドラマ、日常―教育社会学考察」(2022))に関して、少し説明します。この冊子は、1年前に作ったものですが、ここ2~3年に、私がブログに書いた文章を集めたものです。その内容を、10の分野に分け、ピックアップして掲載しています。これは、教育社会学の分野を網羅したというよりは、私の関心を持った分野というものです。それに(教育)社会学的な考察を加えたものです。授業をする担当の教員が、どのような人間なのか、少しは知っておかないと、授業を聞く気にもなれないと思いますので、それを知るのに役立ちます。/ 私の経歴は111ページありますので、そこをご覧ください。私の場合は、若い頃から、はっきり目的があって大学教師を目指したのではなく、何となく気がついたら大学教師になり、3つの大学(助手も含めれば4つの大学)に勤め、この歳になってしまいましたが、教育社会学が専門ということで、学校教育だけでなく、青少年文化や、心理学や文学や、韓国ドラマ、映画、花を見に行くこと、テニスや卓球が好きで、人の観察などしながら、思うことを、ブログに綴っています。今回の授業内容に直接関係することは、半分もないかもしれませんが、教育社会学って、こんな考えをするのだということが、わかっていただけたらと思います。/ 私の敬愛大学との関りは、12年前に特任教授として赴任し、講義とゼミを担当し3回ほど卒業生を送り出し6年間勤めた後、客員として授業だけ担当して現在に至っています。皆さんと会うのは、今回一回きりなので、生涯通じて、多分会うことはないなと思うと少し感慨深いです。ただこれから、KCN(WEB)で14回ほどいやというほど、私の講義メモや授業資料を読まされますのでよろしくお願いします。

追記 冊子 『教育、大学、文学、ドラマ、日常―教育社会学的考察‐』(2022.9)は、下記の方法で、電子版でも、読むことができます。

武内HP  https://www.takeuchikiyoshi.com →HP 2002211月13日 → 電子版のアドレスをクリック

早朝にジャズを聴く

今朝は暗い5時台に目が覚め、テレビを付けたら、NHKで87歳になる石垣島在住のジャズシンガー・斎藤悌子のドキュメンタリーをやっていて、聴き惚れてしまった。ジャズはあまり聴くことはないが、歌声に斎藤悌子の人生が詰まっていて、いい歌だなと感じた。この人は、若い頃、沖縄の米軍基地で、ジャズを歌っていた人のようで、沖縄からベトナムの戦地に赴き、明日の命もわからない米軍の若者を惹きつけ、母国で息子の安否を気遣う母親の心情を歌った「ダニーボーイ」は、聴く人の涙を誘う。

<戦後、沖縄の米軍基地にあるクラブで米兵のリクエストに応えて歌い続けていた斎藤悌子が、今、注目を集めている。去年、グラミー賞アーティストのデヴィッド・マシューズとアルバムを制作、初めての東京ライブも超満員で大成功となった。なぜ彼女の歌声は聴く人の胸を打つのか?彼女の知られざる87年の物語と歌声の魅力に迫る。(NHK+で配信中)>

本のある生活

以前に、「大学教員と本」と題して、下記のように書いたことがある。「旧世代の者には本のない生活は考えられない。本(棚)に囲まれた部屋にいると落ち着く。本の題を見ただけで、その書籍に書かれていたことが思い浮かび、読んだ当時の心情が蘇る。どんなに意匠を凝らした建築や部屋でも本(棚)がおかれていないと貧相に見える。どんな素晴らし自然や景色も、本(棚)に囲まれた部屋を超えることはできない。」(2022年1月25日、ブログ)。先に引用した内田樹氏のブログには、同様の心情が綴られていた。さらにその理由が深く考察され、図書館の機能についても書かれていた。その一部を転載する。

<人の家に行ったときに、しばらくいて息苦しくなってきて、なんとなく帰りたくなってしまう家というのがありますけれど、僕の場合は「本が無い家」がそうなんです。どれほど綺麗にしてあっても、長くいると息苦しくなってくる。酸欠になるんです、本が無いと。本というのは「窓」だからです。「異界への窓」というか、「この世界とは違う世界」に通じている窓なんです。だから、本があるとほっとする。外界から涼しい空気が吹き込んで来るような気がして。(中略)>

<無人の図書館をどこまでも1人で歩いてゆく。どこまでも続く書棚がある。そこには自分がまったく知らない作者の、まったく知らないタイトルの書物がどこまでも並んでいる。自分がそんな学問分野がこの世に存在していることさえ知らなかった分野の本が何十冊も並んでいる。それを見ながら、「そうか、ここにある書物のうち、僕が生涯かけて読めるのは、その何十万分の一だろうな。残りの書物とはついに無縁のまま僕は人生を終えるのだろう」ということを骨身にしみて感じる。(中略)/ 図書館の使命は「無知の可視化」だと思うんです。自分がどれほど無知であるかを思い知ること。今も無知だし、死ぬまで勉強してもたぶん無知のまま終わるのだ、と。その自分自身の「恐るべき無知」を前に戦慄するというのが、図書館で経験する最も重要な出来事だと僕は思います。/ 図書館というのは、「蔵書が無限である」ということが前提なんです。蔵書が無限であるので、あなたはこの図書館のほんの一部をちょっとかじるだけで一生を終えてしまい、あなたが死んだ後も、この巨大な図書館の中には、あなたがついに知ることのなかった叡智や感情や物語が眠っている。(中略)。/ 図書館がそこに立ち入った人間に教えるのはたぶん「無限」という概念なんです。そこに足を踏み入れた時に、おのれの人生の有限性とおのれの知の有限性を思い知る。これ以上教育的な出来事ってこの世にないと思うんです。(中略)/ 知的であることとはどういうことか、それを一言で言うと、「慎ましさ」だと思うんです。無限の知に対する「礼儀正しさ」と言ってもいい。自分がいかにものを知らないか、自分の知が届く範囲がどれほど狭いかということについての有限性の覚知です。>(内田樹)(http://blog.tatsuru.com/2023/09/09_0927.html)。

内田樹の村上春樹論

 内田樹には、2007年に出版した村上春樹論がある(『村上春樹にご用』)。その内容に関しては、昔読んだので忘れてしまったが、氏が村上春樹のよき理解者だという印象をもったことを覚えている。氏の最近の図書館職員たちへの講演(http://blog.tatsuru.com/2023/09/09_0927.html)で、村上春樹のふれている部分があり、村上春樹の作品の底流にあるものに関して明解に解説していて感心した。江藤淳との共通点(上田秋成を高く評価している)の指摘にも納得した。少し長いが、その箇所を転記しておく(中略あり)。

< 村上春樹という作家がいますが、彼は「自分は特殊な職能民だ」と言っています。どんな職能かというと、ふつうの人は地下一階までしか行かれないけれど、自分は地下二階まで降りることができる。地下二階まで降りるとそこには太古から流れ続け、いまも世界中に広がっている「水脈」みたいなものがある。そこから自分の持っている手持ちの器でいくばくかのものを掬って持ち帰る。地下二階にはあまり長くいると人間にとっては危険なことがあるので、用事が済んだらさっさと現実世界に戻ってきて、地下二階で経験したことを物語として語ってゆくのが仕事であると言うんです。自分はたまたまそういう人間であるということを、さまざまな文学論の中で素直に語っているんです。/ 村上春樹の書く物語って、全部そうですから。誰かが境界線の向こうに行って消えてしまって帰ってこない話、境界線の向こうから何か危険なものがやってくるので、それを押し戻す話。この二つが繰り返される。どれも境界線、ボーダーラインのこちらとあちらを往き来する話なんです。/ だから、村上春樹の小説にはほぼ全部「幽霊」が出てきます。「幽霊」というか、「この世ならざるもの」が登場してきて、主人公はそれとどうやって応接するかいろいろ工夫する。『羊をめぐる冒険』からずっとそうなんですけども、決定的になったのは、河合隼雄との対談『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』からのような気がします。/ この対談の中で、村上春樹が『源氏物語』について河合隼雄に「源氏物語に出てくる悪霊とか生霊とかいう超現実的なものは、当時の人々にとって現実だったんでしょうか」と質問したら、河合隼雄が「あんなものは全部、現実です」って即答するんです。/ 村上春樹自身、自分の文学的系譜をたどると、上田秋成に至ると言っています。上田秋成の書く話ってどれも「この世ならざるもの」が人を殺したり、人がそれから逃れたり、それと交渉したりという話なんです。 その上田秋成の直系の文学的系譜に自分は連なる者であると言うんです。/ 上田秋成の文学的価値の再評価を、21世紀に入って村上春樹がするわけなんですが、その前の1960年代に上田秋成を高く評価して、日本文学の淵源はここにあると言った人がいます。江藤淳なんです。/ 江藤淳は自分はかなりうまく英語を操ることができるが、英語では新しい文学を創造できない、何か文学的なイノベーションができるのは日本語によってだけだ、と(書いている)。日本語の淵源がある。江藤はそれを「沈黙の言語」と呼びました.。 江藤淳はもし日本から世界文学が出るとしたら、それは上田秋成の系譜からしか出てこないと予言するんです。そして、その予言の60年後に村上春樹が登場する。不思議な話です。/ 村上春樹の作品で最初に「この世ならざるもの」とのかかわりを書いたのは『羊をめぐる冒険』です。この作品を書き上げたことで村上春樹は専業作家になってやっていける自信がついたと書いています。/ ある日、自分が「鉱脈」に近づいた実感があった。毎日コツコツとのみを振って岩をくだいているうちに、だんだん地下水脈、地下鉱脈に近づいていった実感があったとインタビューで話しています。『羊をめぐる冒険』は結果的には世界文学になったんですけど、これは世界文学の系譜の直系という「鉱脈」に連なる作品だったからです。/ 『羊をめぐる冒険』ですと、「僕」という主人公がいて、「鼠」という親友がいますけれど、これは「僕」のアルターエゴなんです。傷つきやすくて、純粋で、道徳心にやや欠けたところがあるけれど、きわめて魅力的な男なんですが、それは「僕」の「少年時代」、アドレッセンスなんです。その幼い自分自身と決別しないと「僕」は大人になれない。アルターエゴは「僕」がこのタフでハードな世界で生きていくために切り捨てた、自分の一番柔らかい、一番優しい部分のことなんです。/ 物語にはいろいろな機能がありますけれど、アルターエゴとの別れの物語は「少年時代の自分を供養する」というかなり宗教的な機能を果たしていると思います。失われた少年期を供養する物語を、通過儀礼を過ぎて「つまらない大人」になってしまった世界中の男たちは求めていた。/ 書物というのは、その母語のアーカイブへの「入り口」です。書くことも、読むことも、この豊かな、底知れない母語のアーカイブに入ってゆくための回路です。それは日常的な現実とは離れた「境界線の向こう側」に、「地下」に、「この世ならざるもの」と触れ合うことです。>