日帰りのバス旅行で花桃と桜のお花見

今も全国旅行支援(20%割引)が継続しており、日帰りのバス旅行もその対象であり、さらにそれに地域クーポン(平日2000円、休日1000円)がついて格安であり、庶民、特に年金生活者がそれを利用することが多い。家人と私も年に1度くらいは利用する。近くの駅に朝早く集合し、観光バスの乗りいくつかの観光地を回り、昼食も付いて1日12時間の小旅行である(3月25日)。お金持ちの行くクルーズ船やファーストクラスやグルーン車行く旅行と大きく違い、何とささやかな旅行なのかと思う。

 それでも、栃木の那須高原での昼食と、茨城の古河公方公園の花桃と桜(8660)、埼玉の権現堂桜堤の桜と菜の花(8738,8768)の見学は、期待以上のもので、小雨と曇りの中であったが、参加してよかったと思った。花桃は色が鮮やかで桜と違った華やかさがある(下記)。権現堂桜堤の桜の規模と美しさは、私が今まで見てきた桜の中では最高で、東京の千鳥が淵以上だし、千葉にはないものだと思った。(写真でそれを表せないのが残念)。

WBCテレビ観戦

自分は平均的な日本人だとつくづく思う。普段野球に関してほとんど関心がなく、プロ野球も高校野球もテレビでほとんど見ないが、世間で大騒ぎがあると、ついテレビに釘付けになってしまう。今回WBCに関しては、日本ではマスコミで事前広告があり、初戦から優勝まで、テレビの実況中継があり、その前後のニュース報道・解説も多く、大変な盛り上がりであった。普段野球を見ない私でも6~7割はテレビの実況中継を見た。そこで感じたことをいくつか、書いておきたい。

1つは、このWBCの野球熱は、多分日本がアメリカを誘って「仕掛けた」ところがあり、世界的には関心が低いものと感じた。チェコの選手がほとんど他に職業をもつアマチャ選手だったり、アメリカの大リーガーの選手にとってはこのようなマイナーな大会で怪我をしたら大変という態度が見られた。オーストラリヤでは、WBCはほとんどニュースで取り上げられていないと聞いた。第2に、世界の野球のレベルが上がり拮抗しているということ。韓国のチームも中国のチームも強く、日本が勝ったのは運もあると思った。大谷は次のように述べている。「1次ラウンドから、対戦したライバル国との差は感じていなかった。どこが勝っても不思議ではない。各国とも素晴らしい選手が集まっていた。台湾、韓国、中国に限らず、各国にチャンスがあるというのは実力が拮抗している」。第3に、日本のWBCにわかファンも、結果に関心があるだけで、それほど野球に関心があるわけではないのかもしれないと思った。日本とアメリカの決勝戦の時間、私の卓球仲間ではテレビ観戦よりいつも通り卓球練習をする人が多くいた(私は野球観戦を選んだが)。

私の場合は、野球は、小学生の時の草野球の経験しかないが、野球がスポーツのなかでは一番面白いのではないかと思っている(これが第4)。1回から9回までが1つの人生のようであり、山あり谷ありで、興味深い。さらに、投手と打者の心理的優位さも投球の1球ごとに変わり、その気持ちに肩入れして観戦していると時間を忘れる。ピッチャ―や打者の勝ち負けに同化して観戦すると、選手の歓喜や落胆の気持ちが直に伝わってくる。このような喜怒哀楽を含めて、チームや選手を応援するのが、スポーツ観戦の醍醐味なのであろう。今回のWBCで少しそれを味わった。

第5に、国を背負っての試合には、単なるスポーツ(遊戯)ではなく、宗教的な儀礼(聖)の意味もあることも感じた。(今回のWBCの選手は若いのか、聖より遊戯が勝っているも人が多いと感じたが)。一社会学者は次のように書いている。

「私たち日本人が集団の代表として行動する時、私たちはいわば宗教的な営みを行っているのである。選手たちはもはや「個人」ではない。彼らは集団の繁栄を儀礼的に演出する司祭である。チームの勝敗は背後の集団の実力の程度を象徴するから、絶対に負けてはならない。(中略)日本人の集団スポーツの中には、もう一つ宗教的な特徴がみいだされる。それはリチュアリズム(教え込まれた型どうりの行動)である。(中略)戦争は日本の国家の運命をかけているから、明らかに宗教的なものある。代表意識にかり立てられて、日本を代表する責任を負わなくてもいい人まで死んでいった」(作田啓一「高校野球と精神主義」『恥の文化再考』筑摩書房,1967、pp.257-267)

桜の開花

家の前の小学校の桜があっという間に8分咲きになった(8462)。あわてて自転車の乗り、近所の桜を見に出かけた。千葉市の動物公園の裏の桜は5分咲きくらいでまだまだ満開まで2~3日はかかりそう(下記)。天台の運動場の桜も同じくらい(8534)。モノレールからの眺めも今度試みてみたい。

学校のジェンダー不平等について

ジェンダーの平等が言われているが、教育の世界では依然ジェンダーの不平等が続いている。その一つは、学校の管理職に女性が少ないこと。それについての考察は、河野銀子編著『女性校長はなぜ増えないか』(勁草書房.2017年)などに詳しい。今日(3月18日)の新聞に、そのことの最近の状況が載っていたので、一部を転載する.

<学校のジェンダー不平等 女性校長、公立中高で1割満たず/ 中学校は9・8%、高校(全日制)は9・2%――。これは、公立校の校長に占める女性の比率です。ジェンダー平等の実現が国際的な課題となるなか、日本の校長の女性比率は諸外国と比べて極めて低いのが現状です。/ 文部科学省の学校基本調査(昨年5月1日現在)によると、公立校の校長の女性比率は小学校で約25%なのに対し、中高では1割に満たない。「教員」「副校長・教頭」「校長」と職位が上がるにつれて女性比率が下がる傾向がどの校種にも見られた。/ 女性校長が少ないことは、何が問題なのか。まず挙げられるのは、「リーダーは男性」といった性別役割分担意識を子どもが持つ恐れがあることだ。/ 次に挙げられるのは、学校における意思決定層の多様性の欠如だ。/ では、なぜ女性校長は少ないのか。どうすれば増やせるのか。 管理職になりたくない理由の中で、男性より女性が選んだ割合が特に高かったのは「育児や介護などとの両立が難しい」だった。ジェンダー平等の実現が叫ばれるなか、家庭の負担が女性に偏っているのが実情だ。/ 管理職へのキャリアアップに求められる「暗黙の要件」が女性教員を排除してきたと指摘するのは、山形大学の河野銀子教授だ。管理職になるための事実上の要件として、長時間労働を伴いがちな教務主任の経験や、合宿型の中央研修への参加などが求められ、家庭との両立が難しい女性教員が管理職になるのを阻まれてきたという。また、地域によっては「夫婦で教員の場合は両方が管理職になるのを避ける」「女性教員は孫が生まれたら退職する」などの慣習があり、女性管理職が増えない要因になっているという。河野教授は「女性が排除されやすいルールや慣習を見直すべきだ」と話す。>(朝日新聞、3月18日朝刊より一部抜粋)

ジェンダーの平等も含め、今話題になっている教育の多様性に関して、河野銀子さんの講演や河野さんが参加するシンポがいくつか開催されるようだ。

3月22日:学術会議 https://www.scj.go.jp/ja/event/2023/331-s-0322.html

3月26日:人文社会科学系学協会男女共同参画推進連絡会(GEAHSS) https://geahssoffice.wixsite.com/geahss/single-post/geahss_20230326