黒部ダムに行く

軽井沢で娘家族と別れ、我々は千葉に帰る予定だったが、ここまで来たのなら、2時間半で行ける上高地行こうということになり、車で上高地を目指した。娘が、安曇野にある4つ星ホテル「ホリデイ・イン リゾート信濃大町くろよん」を予約してくれて、そこに宿泊。始まった全国旅行支援(宿泊費40%引き、1泊3000円地域クーポン)が使えた。高級ホテルで部屋も、温泉もよくて、得をした気分。

ただ、そのホテルから上高地は車で1時間以上あり、翌日上高地観光を諦め、そこから15分と近い黒部ダムに行くことにした。黒部ダム観光はヤワではなかった。黒部ダム及びその渓谷は、駐車場からは、電気バス、登山電車、ケーブルカー、トロリーリーバスを乗り継ぎ、途中もかなり歩き、往復5~6時間かかる行程(高低差もかなりあった)。ダムの放水の迫力と水しぶきの美しさ、山の中腹の綺麗な紅葉、山の頂上(標高2400メートル)の木も生えない景観を満喫した。このダムの建設工事に関わった人々の途方もない苦労にも感嘆した。

黒部ダム観光を終えるともう夕方の4時過ぎ。近くの日帰り温泉に入り、そこで夕食も済ませ、そこから一気に、車で自宅を目指した。高速に「豊科」で乗り、長野道、中央高速、首都高、東関東経由で、約4時間半で黒部ダムから千葉の自宅に帰った(全て妻の運転、妻に感謝)

秋の軽井沢を楽しむ

久しぶりに、軽井沢に行った。昔、上智大学在職中は、教職員用のロッジや学生用のセミナーハウスによく泊まり、軽井沢に毎年のように行っていた。久しぶりの軽井沢。娘家族と一緒の旅行。泊まったのは中軽井沢にある私学共済の宿「すずかる荘」(https://www.shigakukyosai.jp/yado/search/ichiran/karuizawa/index.html)。この宿は、素朴で、料理が綺麗な懐石料理で、とても美味しく、広い和室で、温泉もあり、とても居心地のいい場所。(下記の写真は、外にあるロッジ、ここにも泊まれる)

軽井沢は、野鳥の森、ハルニレテラス、旧軽、雲場池、鬼押し園、白糸の滝など定番を回り、過去の訪れを思い出す。相変わらず、上品でおしゃれな人が多く、犬を連れている人も多い。車は高級車(レクサスや外車)が多く、木々にも品があるように感じられる。新しいところでは、「軽井沢千住博美術館」(https://www.senju-museum.jp/)にも行き、軽井沢に合った素敵な建築と素敵な絵に出会った。

同窓会について

「同窓会は好きか」と聞かれると何と答えていいのかわからない。20年くらい前に急に小学校の同級生に会いたくなり、同窓会を1年に1回立て続けに開き、6年生の時の担任の先生にも会に来ていただき、さらにその翌年には有志5名で担任の先生の佐渡の自宅に尋ねたことがある。それで小学校時代を思い出すとそれで満足して、その後会を開いていない。中学校の同窓会は一度も開かれていない(名簿もない)。高校の同期会は5年に1度くらいに開かれ、同級生に会いたくて参加するようにしている(高校時代に話もできなかった人と話せるのはうれしい)。大学の学科の同期会も熱心な人がいて1年に1回は開いていたが、1昨年彼が亡くなり、結び役を失い開催がなくなった。大学のサークルの同期会も3年に1度くらいに開かれていたが新型コロナで延期になりなり、今後の開催はわからない。

同窓会に関しては、筑波大学の黄順姫さんの『同窓会の社会学』(世界思想社、2007)というすぐれた本があり、私もそれに学び、大学の同窓会に参加する心理に関して短いコラムを書いたことがある(2018年9月12日のブログ)

 変わった同窓会があることを、最近ある人からの電話で知った。それは、ある外国の詩(ウーラント「渡し場」)に共感した人が、その共感をもとに「同窓会」を作り、会合を開き、WEBサイトを開き、本まで出版したというのである。一つの詩への共感が、同窓会を作り、会合を開き、本まで出版するまでに至るというのは驚きである。それを私に知らせてくれたきっかけは、私のブログ(2012年10月7日、ウーラントの「渡し場にて」)というのにも驚き、何か心温まるものを感じた。そのWEBサイトと本の紹介は下記。

https://uhland.anjintei.jp/index.htm
https://uhland.anjintei.jp/uh0-01-watasi-drama-book.html

上記のサイトの「魅せられた語り継ぐ人々」の末席に、私の名前を記載し、紹介までしていただき、恐縮している。会の発展をお祈りする。(https://uhland.anjintei.jp/uh4-551-watasi-katari-takeuchi.html)

紙媒体(本や雑誌等)の扱い

紙媒体の本や紀要、抜き刷り、雑誌、漫画、新聞の読んだ後の取り扱いや保管を、他の人はどうしているのだろうか。少し気になりだした。

昔、副田義也先生が大学の研究室の本棚に少年マガジンの毎号をきちんと並べてあったのが、全共闘の学生が研究室に押し入り滅茶苦茶にされたと書かれていたのを読んだことがある。漫画の研究もされていた副田先生にとって、毎週発売される漫画雑誌は貴重な研究資料であり、本棚に保管されていたのである(A)。一方、同じような時期に書かれたものだと思うが、子ども研究に詳しい先輩の近藤純夫氏が、電車の中で少年たち数人が買ったばかりの1冊の少年漫画雑誌をバラバラに寸断し読んでいる光景に接し、少年達にとって漫画雑誌は本ではなく、単なる印刷物であり、バラバラにして読み捨てられれるものであることを指摘していた(B)。このAとBでは、紙媒体の扱いが対極に位置する。

私達の紙媒体のものに対する意識や扱いは、今や後者のBに近くなっているのではないか。それにはデジタル化の影響もあると思う。Aのように、一度読んだものは、大切に保管し、繰り返し読む(新聞の場合はスクラップを作る。漫画の場合は単行本を買う)のがこれまでの紙媒体に対する扱い方であったが、今はスキャンしてデジタルで保管するか、一度読んだら(あるいは読まなくても一瞥したら)後は捨てるという方法をとるようになっているのではないか。本や紀要や冊子や雑誌も、新聞と同様、即(そく)捨てられる運命にあるのではないか。

今のテレビで紹介される贅沢を尽くした素敵なデザイン、インテリやの家や別荘も紙媒体の本の姿はほとんど見ない。本のない生活は、スッキリとして快適というのが、これからの理想の住まいと考えられえているような気がする。「どんなに意匠を凝らした建築や部屋でも本(棚)がおかれていないと貧相に見える」(2022年1月25日、ブログ)などというのは、旧世代の感覚になりつつあるよう思う。