大学の遠隔教育について

大学の遠隔教育に関して、2月18日付けの天声人語の内容は、少し違うのではないかと感じた。大学の遠隔教育は、これまでの教室での代返や「ピ―逃げ」に相当するビデオの同時視聴をする学生がいることと、それを摘発して「不可」を付ける大学の対応が紹介されている。そして、学生に同時視聴で余った時間の有効利用を奨励するような内容に読めた(下記に一部転載)。

授業のビデオ配信の内容を視聴しなくても理解できてしまう(単位が修得できてしまう)授業の質が問題であり(これは私の考え)、大学の授業より自主的な学びや遊びこそ大学教育の中核(これは天声人語の考え)という一時代前の大学観を感じる。

 <我が国の大学で盛んだった文化に「代返」がある。/いまはICチップを内蔵した学生証を機械で読み取る大学もある。それを破るのが「ピ逃げ」で、学生証をかざしてピッと鳴ったらすぐに教室を出るという。コロナ禍で増えるオンライン授業に対しては「同時再生」というやり方があるらしい/早稲田大学の学生がパソコンで複数の授業の画面を開き、一度に再生していたことが問題になった/大学は「不可」を与えることを決めたと報じられる/代返もピ逃げも、同時再生も、自分の時間を惜しむ行為だ。では、あいた時間で何をするのか。それが問われるのが、大学生というものである。>(天声人語)代返、ピ逃げ……2022年2月18日より一部転載)

「学校パソコン、もう返したい」

アクティブラーニングの「主体的・対話的で深い学び」の「深い学び」に関して、溝上慎一氏は、「関連づけ」が大切と述べている。(これは歳のせいかもしれないが)あることを読んだり聞いたりした時、昔読んだり聞いたりしたことを思い出し、「関連づけ」てしまう。

一昨日(2月15日)朝刊の日経新聞に、文部科学省が昨年小中の児童生徒にパソコンやタブレットの端末を一人一台配布し、遅れている日本の教育のデジタル化を推進しようとしているのに対して、それが現場ではあまり進まないことが書かれていた。その記事の見出しが、「学校パソコン、もう返したい」であるのに大変驚いた。

政府や文部科学省の上からのお達しに対して、教育現場は正面切って否とは言えず、できることはせいぜいそれをスルーして骨抜きにすることある。それが、「学校パソコン、もう返したい」と、政府のデジタル教育推進の流れに、否と教育現場の教師が言えるということに驚いた(取材に答えただけで、公に言ったわけではないが)。

そこから関連づけて連想されるのは、明治の時代、近代学校ができた時、労働力として大切な子どもを学校にとられて家の農業が成り立たなくなると、各地が学校打ち壊し運動(「学校一揆」や「学校焼き討ち」)が起きたことである。また、その他、上からの(教育)政策に関して、激しい反対運動が、学生運動を含め起きたことが思い出される。

教育のデジタル化は、近代の学校教育が保持してきたさまざまなシステム(教科書の検定制度もその1つ)を破壊する側面がある。それに対する抵抗が「学校パソコン、もう返したい」という言葉に象徴されている(、ように思う)。

日経の記事(2月14日)一部転載―

「学校パソコン、もう返したい」「1人1台ばらまき先行、教師なお「紙と鉛筆」― 義務教育の子どもにパソコンやタブレット端末を1人1台ずつ持たせる「GIGAスクール」構想が空回りしている。国の予算でばらまかれた端末を持て余す現場からは「もう返したい」との声も出る。日本の教育ICT(情報通信技術)はもともと主要国で最低レベル。責任の所在がはっきりせぬまま巨額の税金(4800億円)を投じたあげく、政策が勢いを失いつつある。(以下略)

コストコと海

此のところ千葉も天気がはっきりしない。昨日の天気予報は、千葉も夜は大雪とのことであったが、朝起きてみると雪はなく、地面が雨で湿っている程度。4~5日前に降った雪が庭や道端に残っている。それ以前は、2週間近く晴や曇りで、雨が降らなかったので、雨や雪は植物にはありがたい。

10枚ほどの原稿(書評)を今日送ったし、春休みでやることもなく、家人のコストコへの買い物についていく(車で15分)。海浜幕張のコストコは以前は幕張メッセの駐車場近くにポツンと建っていた感じであるが、数年前に周囲に巨大なイオンタウンが出来て、賑わっていた。中は相変わらず倉庫のようなスーパーだが、アメリカ的な雰囲気で、人気は衰えていないようだ。

帰りは、検見川浜の方に回り、海に突き出している桟橋を散歩した。風があり少し寒い。幕張メッセ、マリンスタジアム、海浜幕張のビル街、幕張ベイタウンを遠くから眺めた。桟橋には釣り人もいて、ちょうど40センチほどの魚が釣れて、「よかったら持っていきませんか?」と親切に言われたが、生きている魚が気の毒で、丁寧に断って、海を眺めた。このあたりは、自然というよりは、人工の街、人工の海浜だが、スッキリしていて、こころが落ちつく。

応援(団)のいかがわしさ

オリンピックの競技とその結果と、その後のインタビューをテレビで観ていて、若い選手(特に若い女子アスリート)が皆の期待を一身に背負い、かなり辛い思いをしているのを知り、心痛めてしまう。

 スキー女子モーグルで、惜しいところで決勝まで進めなかった住吉選手が、準決勝で落ちた後のインタビューで言葉を詰まらせ、「これまで、辛いことばかりで、何のためにスキーモーグルをやっているのか、何のために生きているのか、わからなかった」と涙を流しながら答えていました。

AERAの記事でもその点が指摘されていた。<海外に駐在する日本人記者は「日本では選手がメダルを逃して謝罪する光景が多すぎる」と指摘する。「原因としてはメディアがメダル獲得を煽りすぎている部分もあると思います。もちろん、選手たちは金メダル獲得を狙って血のにじむような努力を積み重ねていますが、五輪でメダルを逃すと、お通夜のような雰囲気でアスリートを謝罪に追い込むような環境を作っているように感じる。欧米では、五輪でメダルを獲れなかったかといって選手が責任を過度に背負い込むことはない。試合に負けた後のインタビューで選手たちは敗因を分析しますが、謝罪する光景は皆無に近いです」 昨年行われた東京五輪で、「ニューヨーク・タイムズ」電子版が「金メダルにおよばなかった日本人選手たちは、銀メダルを獲得しても執拗に謝罪する」というタイトルの記事を8月5日に報じて話題になった。(安西憲春)https://www.msn.com/ja-jp/sports/npb

副田義也先生の「応援団的人間像の研究―日本人論の間奏曲」(『遊びの社会学』1977年収録」)には、日本人特有の応援する人の「脇役の主役化」や「応援のいかがわらしさ」(他人の酒で酔っ払い、大言壮語を常とする人間のいかがわしさ)が、的確に指摘されている。

追記 新聞の関連記事を転載

 北京五輪ジャンプ混合団体で、スーツの規定違反で失格となった高梨沙羅選手は、SNS上で「皆様を深く失望させる結果となってしまった事、誠に申し訳ありませんでした」と謝罪した。/日本選手はなぜ、わびるのか。/ オーストラリアと韓国は前向きで、オーストラリアは「興奮」「すごい」「やった」などの喜びを表す言葉、韓国は「ひざが割れても必ず勝つ」「負けないという自信」など、必死さやそれを乗り越えた自信を表す言葉が多く見られました。一方、中国と日本はネガティブで、中国は「訓練」「犠牲」「重圧」など苦しみの表現が多く、日本は「金メダル以外は(負けと)同じ」など自分に対する厳しい言葉が多いのも特徴でした。/ 日本人にとってわびることは、一種の「クッション」のようなもので、円滑なコミュニケーションにつなげようという意識の一つだと思います。/ 言語学には「ポライトネス理論」というのがあります。人間関係の距離を調整するための言語的な配慮のことを指します。 ポジティブとネガティブの二つの概念があって、ポジティブは、他者から称賛されたい、好かれたいという欲求で「自己主張」的なものも含まれます。 一方ネガティブは、他者から距離を置きたい、関与されたくないという欲求で「おわび」的なものも含まれると言っていいでしょう。 欧米ではポジティブが多く、敬語がある日本やほかのアジア諸国はネガティブが多いと言われています。/ 「私は頑張りました」みたいに言い切ってしまうと、ちょっときつい印象を与えます。「何をえらそうに。謙虚さが足りない」と受け取る人が出てくるので、好まれないというのがあると思います。 ――高梨選手がSNS上で謝罪したのも、そういう受けとめをしやすい「SNS世論」があるのではないかと感じます。(朝日新聞、2022年2月19日 より一部転載)

絵について

音楽と同様、絵に関しても、私には素養がない。育ちが影響しているのかもしれない。小さい頃に音楽と同様、絵をみたり美術館に行った記憶がない。大人になってからでは学ぶのに遅すぎることがあるのであろう。

大人になってから見に行って唯一感銘を受けたのは、船橋の西武百貨店の催し会場で開かれていた宮城まり子の肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」の子どもたちの書いた絵を見た時である。何かわからないがその圧倒的な迫力(生命力?)に圧倒されて、息をのんで絵に見入ったことがある。今も掛川の美術館に「ねむの木学園」の子どもたちの絵が展示されているという。近くに行く機会があれば是非見てみたい。

これは、(ネットで見ただけなのでその実際はわからないのだが)、藤原新也が紹介している丸木スマの絵は、同じような生命力に満ち、衝撃が受けるものなのかと思った。こちらもいつか見てみたい。

「丸木スマという人は原爆の図を描いた丸木位里の母親であり画家というより七十歳を過ぎて突然絵を書き始めたへんてこりんな人である。この天心乱漫な絵、そろそろコロナ明けの近い春の陽気の中でしばし楽しんでいただきたい。」(藤原新也)。「どの絵からも生命力が溢れていますね。」「スマさんの画風は、生きていることの悦びの心象風景という感じで圧倒されます。丸木スマさんの絵。シャガール?と思いましたが、むしろゴーギャンかな。船長の絵とも似たところがありますね。」(会員)

https://marukigallery.jp/hiroshimapanels/suma/
https://www.bing.com/images/search?q=%e4%b8%b8%e6%9c%a8%e3%82%b9%e3%83%9e&qpvt=%e4%b8%b8%e6%9c%a8%e3%82%b9%e3%83%9e&tsc=ImageHoverTitle&form=IQFRML&first=1