内田樹がブログで「『鬼滅の刃』の構造分析」を書いている。興味深い論だと思った。視点(論点)は2つあると読んだ。一つは、パンデミックの寓話(「ウイルス根絶のために戦う若き感染症専門医の成長と勝利の物語」として読めるということ。2つ目は、人や鬼をイノセントと穢れのデジタルな二項対立としてはとらえず、その両方を合わせ持つ存在と描く透徹した見識。その考察の一部を抜粋する。
<『鬼滅の刃』ストーリーを要約する。大正時代に、人食い鬼たちが出没していた。鬼に噛まれると人間は鬼になる。全部食われると消滅するが、ちょっと噛まれただけだと鬼になる。これが感染症のメタファーであることはすぐわかる。死ねばそれ以上感染はさせないが、感染したまま蘇生するとスプレッダーになる。主人公は山中に住まう炭焼きの少年竈門炭治郎。彼の留守中、一家は鬼に襲われ、妹の禰豆子を残して一家は虐殺される。生き残った妹は「感染」しているので、わずかに人間の心を残しながら、なかば鬼化している。妹をもとの人間に戻し、家族の仇をうつために炭治郎は鬼狩りを主務とする「鬼殺隊」に身を投じ、過酷な訓練に耐えて、一人前の剣士となる。そして、人間の心を取り戻し(身体能力は鬼のままの)妹や仲間の剣士たちと手を携えて、異形の鬼たちと死闘を繰り広げるという話である。/悪性の感染症に罹患した妹を治癒するために、ワクチンや特効薬を開発する科学者たちと協力して、「ウイルス根絶」のために戦う若き感染症専門医の成長と勝利の物語・・・『鬼滅の刃』はパンデミックの寓話として読むことができる。/ウイルスは厳密な意味での生物ではなく、他の生物の細胞を利用して自己を複製させる構造体に過ぎない。だから生物学的な意味では死なない。これらの特性は『鬼滅の刃』における鬼の属性とすべて一致する。/鬼と戦う剣士=医療者たちは脆い。彼らは次々と傷つき、死んでゆく。彼らには鬼のように手足を切られてもまた生えてくるというような細胞再生能力はない。/『鬼滅の刃』の説話構造は「鬼殺隊=医療者、鬼=ウィルス」という図式でまとめると話は簡単。/ 鬼滅の刃』にはある「構造」が繰り返し反復される。それは「ハイブリッド」あるいは「どっちつかず」ということである。/ 舞台は「大正」という設定である。前近代と近代の入り混じった「汽水域」のような時代だったということである。/ 剣士と鬼の間もそうだ。ここにも「混淆」が際立つ。一方にイノセントな「善玉」がいて、他方に邪悪な「悪玉」がいるというようなデジタルな区分線が実はない。物語の中心にいて、炭治郎と仲間たちが全力を挙げて守ろうとする禰豆子は「半分鬼」である。「騎士」が「無垢のお姫さま」の純潔を守るというのは騎士物語の定型だが、『鬼滅の刃』で剣士たちが全力で守る「お姫さま」はすでに穢れた血を持つ病者なのである。クライマックスでは、最後までイノセンスと純粋性の権化として鬼狩りの主力であった炭次郎自身が彼の倒したラスボス鬼舞辻無惨の呪いによって鬼化して、鬼の世界と人間の世界の「綱引き」によってかろうじて人間の世界に戻ってくる。/全員が何らかのトラウマ的経験とそれから派生する深い屈託を抱えている。/『鬼滅の刃』は病と癒しをめぐる物語である.このマンガの卓越した点は「健常」と「疾病」をデジタルな二項対立としてはとらえず、その「あわい」こそが人間の生きる場であるという透徹した見識にあったと私は思う。一人一人が何らかの欠損や過剰を抱えており、それぞれの仕方で傷つき、それぞれの「スティグマ」を刻印されている。『鬼滅の刃』の手柄はその事実をありのままに受け入れ、病者たちに寄り添い、時には癒し、時には「成仏」させる炭治郎という豊かな包容力を持つ主人公の造形に成功したことにあるのだと私は思う。( 内田樹「病と癒しの物語-『鬼滅の刃』の構造分析 http://blog.tatsuru.com/2022-02-23 )